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世界は恋人 世界はわたし

ジョアンナ・メイシー『世界は恋人 世界はわたし』(World As Love, World As Self)より。

1960年代にインドのダルハウシーで家族とともに居住していたころのこと。ある日、若いラマ僧のための学校へ立ち寄ると、慈悲の心を養うための実習をしていた。それは、あらゆるひとが前世のどこかで自分の母親だったとみる観想法だった。

生まれ変わりを信じない自分には向かない行法だろう、と考えながら山道を下っていると、むこうから「苦力」と呼ばれる下層カーストに属する荷役労働者が巨大な丸太を背負ってやってくるのがみえた。すこしのあいだ苦力が荷を加減する様子を見守っていたが、あいさつをして、遠慮がちに近づいていった。

『彼の顔が見たかった。しかしそれは、まだ背負った丸太の下に隠れている。それを見るためなら丸太の下にもぐってもいい。それほど見たかった。遠い昔、母親だったこのいとしい人はいまどんな顔をしているのだろう。私の心は喜びと悲しみでふるえた。ちらりと横顔が見えるその浅黒い頰に触れ、地面を見つめる伏せた目をのぞき込みたかった。担ぎ上げる荷物を分けあえるように、縄をほどいて荷造りし直してあげたかった。敬意からかはずかしさからかはわからないが、それはしなかった。ただ二メートルほど離れたところに立って、白髪まじりのあご、ぼろのターバン、頭上に突き出した丸太をつかむふしくれだった手など、その姿の特徴一つひとつにじっと見入るばかりだった。

 いま私の目の前にいるのは、抑圧された階級の人間でも経済体制の犠牲者でもない。この世でただ一人のかけがえのない存在だ。私の母親、私の子ども。たくさんの問いがいっきょに噴出した。彼はこれからどこへ行くのだろう。いつ家に帰るのだろう。そこでは愛する人が迎えてくれ、おいしい食事が用意されているだろうか。じゅうぶんな安息があるだろうか。歌は、そして抱擁は。』

苦力がもう一度丸太を担ぎ直して坂を登っていくと、私は山道を下った。ことばをかわし、彼の人生を変えたわけでも、私たちは親子関係にあったのだと新発見を伝えたわけでもないけれど、ダルハウシーの山はかつてない光に輝いていた。心の模様替えが起こって、ハートが大きく開いた。そして、それが起こるために生まれ変わりを信じる必要などなかった。

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この、とりわけうつくしい映像をみせてくれた一節を紹介したいと思った。

わたしの心には、このしばらくのあいだにはじめて出合ったひと、すでに何度も会い、ふたたび時間をともにしたひと、顔をみると悲しくなるから二度と会いたくないと思ったひと、いろんな顔が思い浮かんだ。

あなたも、わたしの子であり、わたしの母だっただろうか。

(2017.5.28)


念願のサブ機購入!といいたいところですが、おやつ買っちゃうと思います。ありがとうございます。