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神は居ない

画家のikuiroです。
先日の出来事を綴ります。

先日、タイヤの交換をして、新品のタイヤで爽快に友人の家に向かっていると。

何やら道路で動く物体が見えました。

200メートル先に亀が道路を渡ろうとしてました。

危ない!と感じた私は、亀を引かないように避けて走行、、したのですが、後ろから車が来たら、引かれてしまうと思い、車を路駐して亀を救出することにしました。

横断していた亀は全部で三匹、一匹は、車に引かれていて助けられませんでした。

生きている亀を抱えた瞬間、車が走ってきたので、手を振って静止、幸い、車は停車してくれて、私の誘導で、走行していただきました。

しかし、亀の親子だったのでしょうか?
私が救出した赤ちゃん亀は、アスファルトの暑さに耐えられず息絶えていて、もう一匹の亀は生きてましたが、かなり弱っていました。

助けた亀は、頭を甲羅に入れて怯えている様子。親子だったかもしれないと、、切なくなりました。

すると、一台のトラックが私の車の前に停まりました。

サングラスをかけた男性が『どうしましたか?』と、声をかけてくれました。
「道路を亀が横断していて、引いてしまいそうだったので、今助けた所です。」

イラスト微妙です。

『うちの近くの川にいる亀たちだと思う。』と、男性が赤ちゃん亀を見ながら、『もうダメか、、あっちも引かれてしまったね。』と、確認していました。

「この子はまだ大丈夫です。さっき救出したので生きてます。」

私が、男性に伝えると『うちの川に連れてって、逃しますね。』と、亀を持ち上げながら、『どうして、あなた亀を助けたんですか?』と聞いてきました。

「わたし、亀大好きなんです。」と答えました。
生き物全般好きな私の口から出た、シンプルな気持ちでした。

男性は『だったら、連れてく?どうしますか?』と言われ。

「いや、自然に返すのが一番ですから、川に戻してあげてください。」とお伝えしました。

その人が本当に亀を川に返してくれたかは?確認していないのでわかりませんが、亀の気持ちになると、胸が痛くなりました。
自分の目の前で、さっきまで一緒にいた仲間が息絶えているのを見たとしたら、、そう思いながら友人の家に向かいました。

友人の家は、自然に囲まれた静かな場所です。
動物をこよなく愛しているその友人に、先ほど体験した話をしたところ。

「あなたは神様に会ったんだよ!」と言われました。

嫌な予感(笑)
「ん?」と私が思っているとまた、その友人が、「良いことをしたから、男性が現れて、亀を川に逃してくれたんだよ。その人は神様だよ。」と言うのです。

頭に浮かんだ言葉は

『神はいねー』でした。 

ほほほ

信仰心の強い家族の中で私は育ちました。
その友人も信仰深い方です。
何をするにも、神様のお陰と育ちました。
何が起きても感謝するのよと言われてきました。

そこを否定したい訳ではありません。

ですが、私は、以前noteに綴らせていただいた通り、事実を元に全ての原因は私にあり、幻想は無いことを理解している最中であるため、友人の神様発言に驚いてしまったのです。

以前の私なら同調したかもしれませんね。

しかし、話を良く聞いてください。
私の体験した事に、
神様は?出てきました?か??

亀様は出てきてます。

「神は居ないよ」と、伝えると、その友人は「え?どういうこと?なんで?神はいないの?」と聞いてきました。

神様に仕立てのは誰ですか?

そもそも、神様はどういう存在なんですか?

なぜその男性を神にしなくてはいけないのですか?

登場人物は他にも居ますよね?
私、亀、車。

私が信仰心の強い家庭に育ったのも、神に依存し、神こそが救いと熱心に、神様に逃げていった結果、神を美化して、神様のおかげと、責任転換してきました。

本質と向き合わず、神に逃げていた家庭だったから、今、神が居ないと言うことがハッキリ見えます。

ただ、誤解しないでください。

皆様が思い描く神がどうであれ、信仰心があり、神を大切にしている方々を否定している訳ではなく、否定したい訳でもありません。

ただ、私の中に神は存在しないという事実を確認しただけです。

もし、神様的存在があるとするなら、自然界の恩恵が神に近い存在なのかもしれませんね。

私は、全ての事に対して、神様だと思わないと言う事です。

神は居ないよと、口から出てきた事実を帰宅してから考えていました。この言葉の深層心理に向き合いたいと思ったからです。

紐解いて、どうして私が神は居ないと伝えたのかが良くわかりました。

まず、第一に、私は亀を救った事は(良いこと)と思っていないと言うこと。
良いことをしたら神様に会えるのでしょうか?

当たり前の事をしたという事実しかないこと。

そして、突然現れた男性が、亀を川に逃してくれることに安藤しつつ私は疑っていたこと。
(今も真相はわかりませんよね?ちゃんと川に逃したか確認していないので)
その事実を、(神様に出会ったんだね)と言う友人の神様共依存に、自分は、依存しないと断わった言葉が「神は居ない」と発言した事だったと理解しました。

そこに神様なんて存在しないんです。


亀ボーイ


神様をつけたことで、幻想は美しくなり、素晴らしい事のように思えるだけなんです。
偉いことをした。良いことをした。だから神様が見てくれてる。神様に出会えた。

なんでもかんでも良い事に神様をくっつけることが理解出来ない私は、以前とはだいぶ違う観点を持っている事を気がついた日になりました。

神は居ないのならば
どこにいるのでしょうか?

神は居ないといけない存在なんでしょうか?

神に縋ることへ依存しているのはどうしてなんでしょうか?

神が居ないのならば
居るのは誰なんでしょうか?
誰に居てもらいたいのでしょうか?

事実を、神様に置き換えないでください。

誰かを神にしないでください。

神様と言った私の深層心理は、神が居ない事を理解した上で、神が何もしてくれない事を思っていました。

何かをしてくれたのは?亀に出会ったのは?その男性が現れたのは?事実を元に紐解くと、それは全て紛れもなく、私自身が引き起こしているだけでした。

神様は登場しません。

亀からお礼を言われた訳でもなく、言われたい訳でもないのです。ただ、一匹の命は生かされたかもしれないだけなのです。

そこに神や仏は居ないのです。

『私と亀とおじさん。』歌の歌詞みたいですね。

ただ、わたしは祈る事、感謝する事、愛する事が大好きです。

見えない大きな存在があることは感じています。生かされていることも感じています。

ですがそれを感じるのはとても、謙虚で、とても静かな想いだと感じています。

何にでも、神様をつけなくて良い訳なんです。
すべてに感謝しなくて良い訳なんです。
神と言う偉大な存在を前に出さなくていいんです。

神が居ようがいまいが、大したことありません。

神様よりも、あなたはあなたを信じていくべき存在だと思うのです。

神は居た!といつかなる私が出てきたら、またその深層心理を紐解こうと思います。

ですが
今私は神様よりも
深く深く自分という大切な存在を謙虚に愛していこうと思っています。

私の存在は、神様よりも、大切な存在です。

疑う私の大切な日常

神様を大切にする前に、あなた自身の奇跡を大切にしてみてはいかがでしょうか?

神は居ないから、私が居るを信頼していく。

最後までお読みいただきありがとうございました。
次はどんな物語が綴れるか私自身が楽しみです。

亀の親子


私は最近自分でもめんどくさいなぁと思うほど、人の言葉にいちいち気を止めてしまいます。

分析したくなります。

そんな私の今。これからも綴ります。




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