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お殿様の“孤独のグルメ”/徳川将軍の食卓を考える①

庶民の食に憧れる?

目黒のサンマという落語があります。

外出先の目黒で、偶然口にすることになった丸焼きのサンマの味が忘れられない殿様。
城に戻った後、またサンマが食べたいと言い出します。

サンマは庶民が食べるような魚なので、殿様には差し上げられない、と家来は渋るのですが、殿様は聞き入れない。
仕方なく、家来はサンマを手に入れて蒸籠で蒸し、骨を抜き、丁寧に処理して提供。

これがひどくまずい。

日本橋の魚河岸で手に入れたサンマ?
とんでもない、サンマは目黒に限る!

海に面してすらいない目黒をサンマの名産地だと考える殿様の世間知らずを風刺するストーリー。
現在でも目黒ではサンマ祭りが行われるなど、馴染みの深い演目です。

無造作に調理されたアツアツのサンマの美味しさにあこがれる殿様が出てきましたが、実際には、殿様は普段どんな物を食べていたのでしょうか。

徳川将軍の食卓

江戸城の殿様はすなわち、徳川将軍です。

将軍のプライベート空間は、江戸城の大奥。ですが、大奥は極めて閉鎖的な空間である上、身分の高い人々の生活の様子を事細かに書き記すようなことは許されません。

そのため、将軍の私生活は謎に包まれている部分が多いのです。

大奥の様子を知る手がかりになるのが、明治時代に発行された『旧事諮問録』という本。
江戸の時代を知る人も少なくなりつつあるので、各分野のことを知る人に当時の様子を回顧してもらい、後世に伝えようという趣旨の本です。

「勘定所の話」「御庭番の話」「町与力の話」など、色々な人が経験談を寄せています。

この中で、大奥に関する記憶を語っているのが次の2人。

旧・中臈 箕浦はな子
徳川家慶時代から大奥につとめる。15歳から出仕していたが、麻疹にかかったため19歳のときに辞職

旧・御次 佐々鎮子
徳川家茂時代から4代にわたって大奥につとめる。和宮の下向があったとき17歳。幕府瓦解と大奥立ち退きの後、辞職。

明治24年(1891)4月23日聞き取り

御中臈は大奥に仕える、高位の役職です。将軍や御台所の身辺を世話する役割で、特に家格や容姿に優れた者が選ばれました。将軍の側室は、将軍付きの中臈から選ばれたといいます。

御次は御膳や茶道具の管理、台所の整頓などを任せられました。祭りなどのイベントの際には、踊りや狂言を演じて盛り上げることもありました。

千代田の大奥 猿若狂言

歴史の教科書でしか見ないような場面に立ち会った人がいること、本人にとってはそれは日常生活の一コマでしかないことに、改めて驚かされます。

『旧事諮問録』から、将軍の食卓に関する記事を見ていきたいと思います。

2回目はこちら

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