にしのとりかえばや(第二十八話)
三十、
閑静なはずの一郭が、一転、俄に騒がしくなった。ライゴオル家の管家が書院に駆け込んできた。
「御無礼つかまつります! 老爷、御史台です! 御史台が押し入って参りました!」
「何と!」
ラムルが叫んだ。
「彼奴ら、卑官の分際で無礼千万な乱暴狼藉ーー」
壮年の管家は、真っ青な顔色であったが、天晴れにも自制を利かせていた。
「老爷、一刻も早く邸第よりご退避なさりませ」
やおらライゴオル家の私兵とおぼしき武人が数名、房室にたち現れた。いずれも屈強な壮漢だが装備は軽い。おそらく、刃を交えるのではなく機動力を重視して駿馬で黒獅子侯を離脱させる手筈なのであろう。さすがのアガムも、表情を引き締めて腰間に手を伸ばした。父を逃がすため、いざとなれば一戦交えるつもりだろう。
「狼狽えるな!」
黒獅子侯が厳かに一喝した。
「アガムよ。其奴らを連れて今すぐこの場を離れよ」
「しかしーー」
「行けい!」
まさしく獅子のごとき哮りであった。サラとラムルは弾かれたように立ち上がった。アガムは言いかけた詞を呑んで、二人と共に書院を後にした。
廊下を進むサラの耳に、別墅のあちこちから喚声が響いてくる。御史台はかなりの人数を投入しているようだった。園林に出て、来た路を戻り裏木戸に向かった。
「お待ちを。そちらは多分、囲まれています。此方へ」
アガムが低声で二人を方向転換させた。行き先は、先ほど見かけた亭であった。八角形の床の頂点から伸びる柱の上に、屋根が乗っただけの建物である。壁はない。その代わりに羅の帷が柱と柱の間に二重に掛けられているのだった。その帛を掻き分けると、内側には凝った装飾の卓子が一つ、腰かけが二つあり、床は特別に作らせた八角形の絨毯が敷かれていた。
「こんなところで何を?」
答える代わりにアガムは、絨毯の端を無造作に捲った。そして剥き出しになった石造りの床の一部に指を差し込むと、難なくそれを引っ張り上げた。その部分は、石に見せかけた木の揚板であった。ぽっかりと口を開けた竪穴があって、梯子が下に降りていた。
「この隠し通路を行けば、邸第を囲繞する石塀の外に出られます」
アガムが二人を促す。それを見てラムルが訊いた。
「アガム様はーー?」
「ーー申し訳ございません。復路はお分かりですね」
うっすらとした外灯で、いっそう蒼白に見えるアガムに二人は向き合った。サラは言った。
「お父上の許にお行きなさいませ。きっとお心強いことでしょう」
アガムは微笑んだがそれは、これまでのどの微笑みよりも血が通って見えた。アガムは用心で火を点けていなかった灯籠を二人に手渡すと、黙って一礼した。貴公子は、騒然とする邸第に気遣わしげな眼差しを走らせた。二人が竪穴に入ると、すぐに揚板が閉じられた。
*
隠し通路はさほど長くはなく、隣接した邸第に繋がっていた。その邸第に人気はなく、黒獅子侯の持ち物に擬装を施したのだと察せられた。
城内には、どことなく落ちつかなげな気配が漂っていた。心なしか常より夜警の衛士が多く、二人は辻や十字街で彼らをやり過ごさねばならなかった。
「このまま武館に行こう」
どちらからともなく言い出すと二人は、足をベルン修練場に向けていた。但し焦って急行すると衛士たちの目を引くおそれがある。じりじりとしながらもサラは、逸る気持ちを律して歩き続けた。
夜にうずくまる修練場は、ひどく懐かしい場所に感じられた。
サラとラムルは一応、裏手に回って塀を乗り越えた。万が一の監視を警戒してのことだった。
(まさか武館に忍び込むことになるなんて……)
二人は音も立てず孤房に忍びよった。
「そこまで」
扉に手をかけようとしたサラを、背後からの鋭い叱責が押しとどめた。
「動くな。貴方たちの体は、この半弓が追っていますよ」
アルキンの声だ。ほっとして力が抜けそうになった。
「アルキン殿ーー」
ラムルが振り向こうとする。
「動くな! ……て、ラムル! サラもか!」
射かけていた半弓が下がった。
「無事だったか!」
「はい。叔父上も」
相変わらずどこか眠たげな叔父の顔を見たら、なぜか涙が出そうになった。アルキンは周囲に視線を走らせた。
「ここじゃマズイ」
「アルキン殿、実は折り入ってお知恵を拝借したいのです」
ラムルの詞に頷くと叔父は、二人を孤房の中に招いた。
書庫は、サラとアルキン、ラムルの三人が入ると一杯になった。いつかと同じ顔ぶれだ、とサラは思った。あの時はまだ父の死を知る前だった。ほんの廿日ばかり前のことだが、もはや遥か遠い昔のように感じられる。
書見台と榻を端に寄せても窮屈な室内で、三人は車座になって額を突き合わせた。
サラが語り終えるとアルキン叔父は、ふうむ、息をひとつ漏らした。
「で、その『翼』とやらが本当にあるのではないかと思うのだね」
「確実に存在するかどうかは、わたくしにも分かりませぬ」
ラムルは頭をかいた。
「ですが、ひとつ気になっていることがあります。それは以前、アルキン殿がサラと交わしていた話です」
「ガイウス様のことかな。ラウド様が、ガイウス様にすべてを伝えてはいなかった云々、という」
ラムルが頷く。
「はい。ガイウス様はーー剣術に不調法なわたしが申すのも何ですがーー知るかぎりでは最高の剣士です。そのガイウス様を斃したとなれば、尋常でない遣い手と思われます」
「なるほど。その相手こそ、そのカルロッツアの剣を受け継いだ人物だと」
「短絡的かもわかりませんが、その可能性はあるかと」
サラはいまだに、同門にそのような人物がいるとは考えたくなかった。黒獅子侯の話の通り、高名な剣士だったラウドは他の武館の門人にも指南した。その際に『翼』という技を残したのではないか、そう思えてならない。
「しかし先ずは足許からと思いまして」
もちろん継承者が秘されていることも考えられますが、とラムルはつけ加えた。
「だが、ラウド様の教えを受けた人物となると相当な高齢かも知れぬぞ」
アルキン叔父が首を捻った。
「果たしてそんな人物に、ガイウス様が斃されるだろうか」
「そうとも言いきれないのでは。外公が修練場をやめて隠居したのが、およそ十五年前。例えば当時、十几歳だった人物と考えればまだ四十そこそこの可能性も考えられます」
サラが答えた。あるいはもう少し上の年齢ならば確実であろう。どうしてもサラは、アクバのことを念頭に置いて話してしまう。かの者は、どうみても四十は越している。あるいは五十以上かも。となれば十五年前は二十五歳から三十五ほど。印可を授けられるのに問題はない。
ふむ、と叔父は言った。
「いずれにしても記録を当たってみるしかあるまい。過去の門人録だったねーー」
アルキンが立ち上がる。二人も従った。
(門人録。そこに、求める答えはあるのだろうか)
「お探しのものは、ここら辺だね」
教えられた一角には、表紙の擦りきれた冊子が平置きに積まれていた。代々の門人録である。黒っぽい紙の表紙がついていて、向かって右側が糸で綴じられている。外題は特になく、中身は一冊ずつ読んで確認するしかなさそうだった。ざっと数えると、祖父の代のものだけで十数冊はありそうだ。念のため、後代のものにも目を通したほうがよいかもしれない。サラたちは手分けして捲っていくことにした。
記録には几帳面な文字で、門人の在籍年月日や、免許や印可を授けた日付、伝授された技の目録などが記されてあった。紙が傷んでいる箇所や、墨が滲んで字が読めない部分もあり、注意せねばならなかった。
一葉ずつ丁寧に見ていく。当然だが知らない名前ばかりだった。こんなとき、書庫の主アルキン叔父がいるのは心強かった。当時の高弟の中には、すでに物故した者やホーロンを離れた者などもおり、アルキンの記憶を頼りに、それらの人物を容疑から外すことができた。
だがーー。
期待に反し、どこにも『翼』の文字も、アクバの名も見当たらなかった。
(『翼』の意味は別にあるのだろうかーー)
今さらながら、疑念がもたげてくる。
(今はこれに集中せねばーー)
すぐさま別の冊子を手に取って調べる。しかし又もや空振りであった。じりじりと灼けつくような焦燥感が振り返して来る。
「ちょっとこれを見てくれ」
三冊に目を通して、別のもう一冊に手を伸ばそうとしたときだった。ラムルがある葉を見開きにして差し出した。
「『翼』には関係ないけども、ちょっと気になってな」
ラムルがさし示した箇所には、十五年前の日付で、ヨン・ベルデランドの名前が記されている。その下にはーー〈黒烏〉の文字。在籍年数が書いていないので、指南を受けた他の修練場の人間であろう。
「ベルデラントといえば、あの赤獅子候だろうな」
ラムルが首を捻った。アルキンが横から覗き込んで引ったくった。おお、と一人で興奮している。
「これだよ、これ! 前にした話に出たやつだ。行刺剣なんて言われていた〈黒烏〉だよ。そうか、これって赤獅子侯だったのか。迂闊だったな!」
そのアルキンの声は、サラには半分しか届いていなかった。
〈黒烏〉
赤獅子侯。
二つの言葉がサラの中でぐるぐると渦を巻いて、ひとつになろうとしていた。
(ーーまさか)
サラは持っていた冊子を取り落とした。サラの中でひとつの絵が、音を立てて完成していった。どうした、とラムルの声が、やけに遠く感じられる。
絵の中心にはーー。
深紅の獅子が座していた。
*
「事件を解くには、起点を父上からずらさなければならないと思う」
ラムルとアルキンを前に、サラは話しだした。
「一連の事件の起点は、ひと月前のバダン衛士令殺害事件です」
「バダン? あの闇討ちされたお方か」
アルキンが、思いだしたようにいう。
「そうです。以前、叔父上に聞いた〈黒烏〉のことーー。その話を聞いたときに、何かが引っかかったような気がしたの。それが……」
「バダン衛士令の行刺《あんさつ》か!」
ラムルが引きとった。サラはうなずいた。
「〝夜陰に乗じて首を刎ねる行刺剣〟そう、まさにこれはバダン衛士令が殺されたときの状況と瓜二つです。つまりバダン衛士令を殺害したのは、〈黒烏〉の遣い手ということになります。すなわちーー」
サラは冊子をピシャリと叩く。
「赤獅子候その人です。ではなぜ赤獅子候が、衛士令を自らの手で殺さねばならなかったのか」
サラはひと息ついた。
「そこで思いおこされるのが、アガム様の言葉です。アガム様はこうおっしゃっていました。どうしてカリムほどの地位にある者が諾々とアクバといういち捕吏の言に従ったのか、と」
「赤獅子候が、カリムに行刺を持ちかけたと?」
ラムルが言った。
「ううん。以前、ラムルが指摘したように、この事件の牽線人は自らが表に出ることを極端に嫌う」
「そうか、それでバダン衛士令かーー」
ラムルが呟いた。
「たぶん、それが真相でしょう。赤獅子候は、バダン衛士令を操りカリムに働きかける。太守のお側役であるバダン衛士令に弱みを握られたとあっては、カリム侍医団長も動かざろう得ないでしょう。ところが、赤獅子候はバダン衛士令が邪魔になった」
「仲間割れしたのかーーあるいはガイウス様の手がバダンまで伸びたのかも」
ラムルが、考えながらいった。
「いずれにしても赤獅子候が〈黒烏〉を用いた時点で、父にはぴんと来ていたと思うのです。なぜならーー」
バダン衛士令殺害のすぐあと、父は修練場を訪れているからだ。サラたち同様、門人録を調べに。だが証拠を掴むには至らなかったのだろう。だからこそ、ハーリム医師を匿った。しかし、父に感づかれたことを知った赤獅子候は、大胆にも父を襲ったのだ。
噂どおり、前太守と赤獅子候の関係は、犬猿の仲にまで壊れていたのだろう。ここからは完全に想像の域を出ないが、赤獅子候は太守を廃し、その咎を競争相手の黒獅子候に被せることによって、一石二鳥を狙ったのではないか。サウル候が傀儡にすぎないことは誰でも知っている。黒獅子侯さえいなくなれば、ライゴオル家に成り代わってサウル侯を操るもよし、侯を廃して世継ぎのルウン太子を太守位につけるもよし。
「でも、『翼』ってのは……あっそうか」
サラはラムルに頷いた。ナリン砂漠における〈黒烏〉の異称それは……。
「〈夜の『翼』〉か……」
バソラ邨のシナハが聞いたのは、おそらくこの単語の断片であったのだろう。
「どうする」
とアルキンは、サラとラムルを等分にみた。確証は何ひとつなかった。あるのは状況証拠でしかない。これでは赤獅子候ほどの地位にある者を弾劾する手立てにならない。
(ーー手も足も出ないのか)
唇を噛み締める。沈黙していたアルキンが、ポツリと洩らした。
「少し揺さぶりをかけてみるかーー」