いくえさん

『無能だというのは』(略)『小説を書けない人のことではなく、書いてもそのことを隠せない人のことだ』(チェーホフ)

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『無能だというのは』(略)『小説を書けない人のことではなく、書いてもそのことを隠せない人のことだ』(チェーホフ)

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名前のない書物(第四十六回)最終回

図書館18、   *  図書館に行こう。ぼくといっしょに。   *  エントランス・ホールの大階段を降りきったとき、グランド・ファーザー・クロックが殷々と八点鐘を響かせた。胸が痛んだ。もうこの音を、彼女と一緒に聞くことはないのだろうか。  図書館は相変わらず、ぼくを受け止めてくれている。アルバイトがない休日は、図書館を訪れ、スウがよく利用していた書見台に座る。我ながら未練がましく、他人からしてみれば気色悪くも思えるだろうが、知ったことではない。ぼくはそこで、本を読む。ぼんやり

    • 名前のない書物(第四十五回)

      中有3 * 「ゼフィール!」  切迫した、ほとんど悲鳴に近い叫び声が、雷霆めいて女を貫いたようだった。女はぼんやりと曖昧な眼差しを、戸口に立つわたしに向けた。女の眼に映ったのは、うりざね顔を黒髪で縁取った小柄な女であろう。まったく見知らぬ女のはずだ。にもかかわらず、その魂の容は、これ以上ないくらい自分の魂に近しいものとわかったはずだ。その証拠にほら、女の双眸に涙が盛り上がり、二すじの流れとなってこぼれ落ちた。  霞がかった曖昧な記憶の海から、一つの名が浮かび上がってきたのが

      • 名前のない書物(第四十四回)

        図書館17、    翌朝、ぼくは熱発した。  ひどい悪寒にみまわれ、二度ほど嘔吐した。頭が割れるように痛い。身体に力が入らない。自力で病院に行くこともかなわない。アルバイトのシフトが、もとから休みだったのが、不幸中の幸いだった。  昼すぎまで泥のように眠って、午後になってようやく、布団からはい出ることができた。立ち上がると、少しふらふらする。狭いキッチンで、水道の蛇口から直接水を飲んでいると、インターホンが鳴った。しんどさのあまり無視しようかと思ったが、宅配業者だったら気の毒

        • 名前のない書物(第四十三回)

          中有2   *  わたしは落下し続けていた。ひょっとしたら上昇していたのかもしれない。あるいは静止しているのかも。それくらい、自分がどんな状態なのか、自分では、はっきりと判別できなかった。時間も空間も超越した、やわらかな昏い靄のなかにいるようだった。  わたしがあの古代山脈の頂き付近、事象の果てで飛び込んだのは、この世のあらゆる存在を呑み込む虚無だった。すべては影であり、永劫に影でしかない、そのような場所だ。〈場所〉というのも、実際はヒトであるがわたしが、それを認識しようと悪

          名前のない書物(第四十二回)

          図書館16、   「その女はスウさんじゃない! 離れるんだ!」  コシロの声が室内に響いた瞬間、彼女が動いた。バネが弾けたような唐突な勢いで、ぼくめがけて殺到してきた。  思わず抱き留めようとしたぼくの両腕が、間の抜けた形にひらかれたとしても、仕方ないと思ってほしい。  しかしぼくに到達する前に、彼女はもんどりうって転倒することになった。  いつの間にか、ぼくの脇にまで前進してきた警官ーー赤ペンだーーがテーザー銃を彼女に撃ち込んでいたのだ。黒ペンおよびザロフ警部もいっせいに、

          名前のない書物(第四十二回)

          名前のない書物(第四十一回)

          中有1   *  いつとも知れぬ時間、どことも知れぬ空間で。   *  そして気がつくと女は、赤茶けた土砂に覆われた丘陵を一歩一歩、登っているのだった。急峻な傾斜ではないが、乾燥しホロホロと崩れる地面は注意していないと足をとられ、思うように進むことができない。女はゆっくりと、足元の実在を確かめるように、歩いてゆく。  丘のそこここに、ひねこびた矮樹が思い出したように顔を覗かせる。永い年月、風になぶられ続けたのか、枝が幹が、水平やあり得ない方向にねじくれている。  ふりあおげば

          名前のない書物(第四十一回)

          名前のない書物(第四十回)

          螺旋【零】 *  手記だ。まことに遺憾ながら。   *  世間の無知蒙昧な奴ばらは吾サンテツ・フリヤギを鬼神学の権威などと呼んでいたが、此は端的に云って間違いである。大間違いのコンコンチキである。吾は鬼神学だけでなく、百学を修めた万能の博士である。世を震撼させた吾の異端的な大冊『迷宮の神』及び『四月・三月』『秘密の鏡』を一度でも繙いた者ならばそれが、鬼神学などという狭い領域に留まらない、森羅万象を相手に大宇宙の神秘を解き明かした絶対無二の書物と解するであろう。  しかしながら

          名前のない書物(第四十回)

          名前のない書物(第三十九回)

          図書館15、    部屋じゅうが、歪んでいた。魚眼レンズを覗いているような、あるいは巨大な水槽ごしに眺めているような、そんな光景だ。扉も壁も彎曲し、調度品の輪郭は曖昧で、天井は丸みを帯びている。  視界の緣は、黄色がかっている。中心部から外縁部に向かって、グラデーションは濃くなっていく。一番外側では、黄ばんだ古書のページのようなありさまになる。  悪寒がする。ぐらぐらする。三半規管が狂っている。ふわふわとした、とらえどころのない感じ。落下感というより無重力感、無重力感というよ

          名前のない書物(第三十九回)

          名前のない書物(第三十八回)

          神殿Ⅹ.    今にも消え入りそうな、心細い灯りだった。とはいえ、月影も星明かりもない塗りつぶされたような闇夜のなかでそれは、純白の絹布に滴った血飛沫のように目立っていた。  突兀たる山塊の列なる古代山脈、その懐に抱かれた小さな岩棚の下であった。焚き火が照らし出す曖昧な範囲に、ゼフィールの麗しい顔容と、モロクの巨体が浮かび上がっている。  わたしの眼を宿した砂漠狼は、音を立てずに灯りに接近していった。  火勢は弱く、粗朶の燃える音も不景気な響きしか立てていなかった。生木を無理

          名前のない書物(第三十八回)

          名前のない書物(第三十七回)

          図書館14、    問題の動画は、クラウド上のオンラインストレージに保存されていた。  それが、セコウ氏自身の私室で撮影されたものであることは、確認済みである。画像に映っている調度類や壁紙などを、実際の私室と比較し、科学捜査機関が同定した。もちろん完全には、手の込んだ偽装の可能性を排除することはできない。極端な例でいうなら、どこかにセコウ氏の私室を模した撮影用のセットを造りそこで撮影したのかもしれない。だが、斯様な手間ひまをかけてまで「工作」をする理由を推定できた捜査関係者は

          名前のない書物(第三十七回)

          名前のない書物(第三十六回)

          螺旋【伍】    意識をとり戻してまずはじめに感じたのは、強烈な咽喉の渇きだった。幾日か前までは飢餓感が勝っていたのだが、あっという間にとってかわられてしまっていた。  次に意識にのぼったのは痛みで、その源は主に背中だった。独房とは名ばかりの、窮屈なコンクリートの棺桶に後ろ手に縛られたまま横たえられ、不自然な体勢を長時間強いられてきたせいで、凝りの塊が、疼痛が背中にこびりついていた。ほんの少しでも姿勢を変えようものなら、それが飛びあがりそうな激痛になる。  そしてーー最後に感

          名前のない書物(第三十六回)

          名前のない書物(第三十五回)

          図書館13、    ワシリ・ザロフ警部は呆気にとられた表情だったが、それはこちらも同じであった。少なくとも、ぼくは完全に意表をつかれていた。というか混乱していた。スウが姿を消したとおぼしき先に、捜索を頼んだ相手がいるなんてことが、あるだろうか? 「おいっ、貴様らそこで何をしている!」  怒号とともに警部が、デスク・チェアから弾かれたように立ち上がった。いち早く我に返ったようだった。そしてこちらに向き合ったときにはすでに、手妻めいた鮮やかで、特殊警棒を取り出していた。いかにもプ

          名前のない書物(第三十五回)

          名前のない書物(第三十四回)

          螺旋【肆】    都心の一等地にあるそのナイトクラブは、当今の統制下にあっても大入り満員の盛況っぷりだった。それもそのはず、高級将校や裕福な資本家、旧貴族階級、政府高官など上流階級しか出入りできない高級クラブで、そこでは巷の物資不足が嘘のように、ふんだんに盛られたオードブルも、上等な酒やシャンパンも、ゆったりと流れる生演奏も思いのままなのだった。  クリスタル・ガラスの装飾電燈の下、蝶ネクタイを小粋にしめたウェイターが、銀盆に香りのよい葉巻を乗せ、フカフカのソファに沈み込んで

          名前のない書物(第三十四回)

          名前のない書物(第三十三回)

          図書館12、    〈扉〉の先にあったのは、小さな部屋だった。開くと同時に照明がついた。少し赤みがかった、柔らかい光だ。おかげで中の様子がわかった。  広さでいえば、ぼくのアパートの六畳間ほどだろうか。天井と壁の四面は木目調の内装で、床にだけ臙脂色の絨毯が敷かれている。調度品は一つもない。くつろげるような場所には思えないし、一見して、何のためのスペースなのかも判断できなかった。  コシロが率先して入室し、ぼくが後から続いた。  とーー背後でパタンと軽い音がした。図書館側の隠し

          名前のない書物(第三十三回)

          名前のない書物(第三十二回)

          螺旋【參】    割り当てられた天幕の幕扉を開けて、中に入った。  長方形の天幕は、垂直の壁が途中から斜めになって、三角屋根になっている。中には仮設ベッドが四つ。つまり四人部屋だ。二つのベッドが埋まっていた。横になっている女たちはポーズ・ショウーーきわどい恰好でなまめかしい姿勢をとるーーの人形役で、出番が晩からのために昼間は休んでいることが多い。昼夜逆転の生活サイクルになっているのだ。空いているのは、鞦韆乗りの娘のベッドだった。  巡業見世物一座の面々には、街中の安宿に泊まる

          名前のない書物(第三十二回)

          名前のない書物(第三十一回)

          図書館11、    久しぶりに、アルバイト先に顔を出した。何より生活がかかっていて、そうそう休んでばかりいられないのもある。  朝から夕方までの昼勤シフトに入って作業したが、正直なところ、心ここにあらずな場面が幾つかあった。それに気づいて、何とか集中しようと努める。怪我をしたりさせたりしてクビになっては、元も子もない。  幸い仕事はルーティン・ワークなので、シフト終りまで何とかこなすことができた。倉庫内を、段ボール箱やプラスチック製の折りたたみコンテナを運んでウロウロしたり、

          名前のない書物(第三十一回)