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にしのとりかえばや(第三十三話)最終回
三十四、
東門近くの長行店(旅行業者)に預けていた馬を引き取る手はずになっていたが、店肆の敷地に入っても、誰の気配もなかった。繋がれた駱駝や驢が、退屈そうに嘶き、馬車が所在なげにポツンと置かれている。
「おかしいな。誰もいない」
馬車の周囲を見回して、ジクロが言った。客がいないのはともかく、馭者もいないのは奇妙だった。
「中にいるのかな」
サラは店の裏手に回った。ジクロも後からついてくる。裏庭へ足を踏み入れた途端、金気臭い、不吉な臭気が鼻腔を襲った。ついひと月前まで、頻繁に嗅いでいた臭いーー。
「血の臭いだ」
ジクロが囁いた。
血臭の源は、庭の隅にあった。血まみれの男が二人、天を睨んで倒れている。ひと目で絶命しているとわかった。サラも何度か見かけたことのある、この店肆の傭僕と馭者だった。
ジクロと目を合わせる。サラは抜刀した。胸がどきどきしてきた。
(搶劫かーー)
サラたちが邸内に入る前に、若い婢女が店肆の奥からやってきた。しかし、自分で歩いて出て来たのではない。賊に無理やり引きずられてきたのだ。
「助けて……」
か細い震える声。細い喉のすぐ下には、禍々しい刃が光っている。
「御無沙汰しておりますなーー」
「お前は……」
アクバがそこに立っていた。
*
アクバが花子に身をやつしたのは明白で、垢じみた襤褸をまとっていた。元より世を欺くためにくたびれた格好をしていたのが、いっそうくたびれている。そのくせ、双眸だけは、ぎらぎらと凶暴な光を放っている。
「戻ってきたのか」
ジクロが呻いた。アクバは、にやりと笑った。
「どこへも行ってなんかいませんよ。ずっと城内に潜伏していたんです。ただ、逃げ回るのにも飽きましてね。ちょっとの音にもびくびくしなくてはならない」
「その娘を放して」
「はいはい。すぐお放しますよ。ですがその前に少し、わたしの話にお付き合い願えますかねえ」
その口調が、やけにのんびりしているだけに、いっそう不気味だった。
「話? 話をすることなんかないわ」
「まあ、まあ、そうおっしゃらずに。サラ様にも興味深い話だと思いますよ。なんといっても、お父上にかかわることですから」
その場の空気が、一瞬にして張りつめた。
「父上? そのことなら決着がついているわ。父を殺した赤獅子候は、わたしが斃した」
「そしてあなたは見事、仇討ちを果たしたと」
半畳を入れつつ、アクバは続けた。
「ところが……違うんだなあ」
「ちがうーー?」
「小姐、そもそも貴女の実力だけで赤獅子候ーーヨン様を斃せたとお思いか?」
「……」
「あれは自殺です。ヨン様は貴女ごとき敗れるお人ではない」
サラは唇を噛みしめた。悔しいがその指摘には一理ある。
「それにヨン様は、ガイウス様を殺していません。殺せるはずがないんです」
「何ですって……」
何を言っているのだこの男は。あのとき、赤獅子候はサラの問いに確かに答えたはずーー。
「胡説だわ!」
「胡説ではありませんよ。なぜなら、ガイウス様が亡くなられた日、わたしはヨン様と一緒にいたのですから。したがって赤獅子候がバソラといかいう邨に行くことなどなかった。殺せたわけないんです。つまり冤罪です」
「嘘!」
「わたしが、いまさら死人に義理立てするような人間に見えますか?」
「そんな……」
それでは誰がいったいーー。
「じゃあ、じゃあ……父上を殺したのは……誰だというの?」
「よく考えれば分かることですよ。いいですか、あなたがたの調べでは、ガイウス様は、死のまぎわに『翼』という言葉を残されました。『翼』の秘剣の噂は、わたしも聞いたことがあります。どうやら『翼』が、ガイウス様の死に関わりがあるらしい。では誰が『翼』の遣い手なのか」
「……」
「サラ様たちは、〈黒烏〉すなわち〈夜の翼〉の遣い手という点から、ヨン様にたどり着いたのでしょうが、言ったとおりこれは間違いです。ちなみにお教えしますがね、実はヨン様も、〈異腹〉でしてね……」
「なーー」
「〈黒烏〉というのは、伝承されるような技ではないのですよ。むしろ、ヨン様が、〈とりかえばや〉の異能力を生かして独自に工夫して編出したものといっていい。ヨン様の〈異腹〉は〈蝙蝠耳〉といって、その名のとおり、蝙蝠のごとく暗闇でも音で、周囲の様子がわかるのです。だから、新月の暗闇のなかでも人を斬ることができる。カルロッツァはそれを〈黒烏〉と名付け、そして封印させたーー」
相手はサラを散々な目に遭わせた男であり、すべては詭弁とまやかしーーそう考えることもできた。しかし、アクバのこの説明には、わだかまっていた霧をいっきに晴れさせる旋風のような力があった。あまりに筋が通っているからだった。「守本沙羅」の記憶がまざまざと蘇る。蝙蝠の発する人間には聴こえない超音波の話は聞いたことがある。蝙蝠は自らの発した超音波の跳ね返りを聞くことで、レーダーのように暗闇の中でもぶつからずに飛ぶことが出来る。それにサラの鼓膜を破ったのも、特異な音波の作用ではないか。
だとすればーー。
(父上を殺した真犯人が、別にいる?)
「そういうわけで、ヨン様は『翼』の遣い手から外れるのですが、そうなると残る可能性は幾つもない」
興がのってきたのか、アクバは剣をひらひらさせた。そのたびに、婢女の目が恐怖で閉じられる。
「『翼』の伝承者は、印可を授けられながら、記録に残らなかったのか? 『翼』などと言う技は存在しないのではないか? いやいや、門人でないヨン様の編出した〈黒烏〉ですら、記されていたのです。カルロッツァの正伝ならば、必ずや残ったでしょう。すなわち『翼』は、カルロッツァが自らの意思で記録に残さないと決めた剣技なのです。さて、門人録に名前が載っていない人物で、つまり門人以外の人間で、かつラウド様の教えを受ける機会のあった者がいるでしょうか?」
アクバのその仄めかしに、恐ろしい考えがサラの脳裡をよぎった。
(まさかーー)
「そう。その条件にぴったりの人物をサラ様は、見逃しておられる。隠居されたあと、人を近づけなかったラウド様と過ごされた唯一のお方がいるではありませんか」
口の中が、からからに渇いた。ゆっくりとふりむいた。
「ジクロ……」
兄がーー。
愛しい男がーー。
とても哀しそうな顔で、立っていた。
*
ジクロが、ほとんど囁くような声で喋りだす。
「父上は、お祖父様のことを本当に尊敬していらしたんだ。そして、自分がとうとう『翼』を得られなかったことを、心底、無念に思っていたーー。真剣に立ち会ってくれ、そう言われたよ。自分の命も長くない。残り火が燃え尽きる前に、剣士として悔いなく逝きたい、と。止めよう、って何度も言ったんだ、勿論。それでもーー決心を変えることは出来なかった」
「どうしてなの……そんな……」
「わかりませんか、サラ様。いやわかるでしょう」
アクバが口を挟んだ。
「それがーー剣者の運命なのです」
「きゃあっ!」
婢女が、悲鳴をあげた。アクバが娘をサラに放って寄越したのだ。
サラは慌てて抱きとめる。娘が気を失い、サラの腕の中でぐったりとなった。
「わたしも性分でしてね。どうしても一手ご指南頂かずにはいられなくて、こうしてノコノコと出てきたわけです」
さあ、と剣を構えて言い放った。
「やりましょうか」
言うなり、一直線の薙ぎ切りが飛んだ。ジクロはかわさず抜き打ちに、これを受けた。さらに刺突を返す。アクバが下がった。
ジクロはひと言、離れて、と叫んだ。その厳しい背中は、サラの知る、いつもの優しいジクロではなかった。幼いころのことが、まざまざと浮かんできた。何度挑んでも敵わなかった哥哥ーー。
無造作に剣をつかんだだけのジクロには、まったく殺気など感じられない。それなのに、容易に近寄れないほどの、圧倒的な迫力がそこにはあった。
対峙するアクバの口から、獣の咆哮のような気合が発せられた。しかし、ジクロが心を動かした様子はなかった。アクバがまた唱歌した。その様を見てサラは息を飲んだ。
(あのアクバがーー攻め倦ねているのだ)
蛇に見込まれた蛙のごとく。
双方が佇立したまま、時が流れた。
するとーー。
奇妙なことがおこった。
サラは顔を中心にして、神経が鈍麻していくような感覚に見舞われた。その感覚は、水面の波紋のように全身に広がっていき、すぐにサラを支配した。舌が、口が痺れ、いうことをきかない。
これはーー。
サラは見開いたままの目を、アクバに向ける。以前にもこれをやられたことがあったのだ。
(〈異腹〉ーー〈口写し〉!)
だがもはや自分の力では、どうすることもできない。
「哥哥、哥哥。ーーねえ、ジクロ」
ジクロの肩が、ひくり、と揺れた。無理もなかった。サラの口から出た呼び掛けには、本人ですら耳を覆いなるくらい露骨で、生々しい淫らがましさが籠っていたのだ。
「ねえ、ジクロ。こっちを見て、わたしを見て。わたしを抱いて……」
ジクロはふり向かない。
「わたし、哥哥が好き。ずっと好きだったの。知っているでしょ?」
しゃべり続けながらサラは、滂沱の涙を流していた。全身を苛む羞恥と戦きーーこんなかたちで愛を告げたくなかったという、身悶えするような、今すぐこの世界から消えてしまいたい心持ちとともに、心のどこかで待ち望んでいた瞬間がついに訪れたという、おそろしくも甘美な至福がそこにはあった。
そして、サラは悟った。
ジクロは知っていた。サラの想いに気づいていたのだ。
緩々とーー。水が流れるように、ジクロが構えを取ったのはそのときである。それは、剣尖を天に向けてて真っ直ぐ立て右肩に引き寄せた、攻撃主体の構えだった。
アクバが笑ったのは、不敵さゆえか極限の緊張のゆえか。呼応して、アクバの体から、陽炎のように殺気が立ちのぼった。
息をのむ決着は、まさに一瞬の交錯のうちであった。
滑りこむような歩法で、ジクロが一気に間合いをつめた。すかさず鋭い剣戟が唸りをあげてアクバの左面を襲う。アクバが迎え撃つ。烈しい交差。二つの影が重なったとみるや、たちまち離れた。
気がつくとーーアクバは手前に立ち尽くし、ジクロはその奥に立っていた。時が静止したようだった。
再び動き出したときーー血飛沫を噴き上げて、アクバが崩れた。
そのとき何が起きたのか、確かなことはサラにも判らなかった。ただアクバの左面を襲ったかにみえたジクロの剣が、まったく同時にアクバの頸の右側を切り裂いていた。それだけは間違いなかった。おそらくアクバの目には、左右から同時に迫り来る二条の光芒が映ったことだろう。そう、羽ばたく双翼のように。
バソラ邨で聞いた、シナハの言葉がよみがえった。そして理解した。
ーーガイウス様のお顔は笑っていなさるようでした。
父もまた同じ光景を見たに違いなかった。そして、自らの及ばぬのを悟り、剣士として満足して、笑ったのだ。サラは涙を流し続けた。
問わず語りのジクロの声は、苦悩に満ちていた。
「お祖父様は〈異腹〉だった。一つのものーーたとえば剣を、同時に、別々の場所に存在させることができたんだ。お祖父様はその力を〈鏡子〉と呼んでいた」
ジクロがサラの方を向く。その目にも涙が盛りあがっていた。
「父上に〈異腹〉はなかった。〈とりかえばや〉とはそういうものだ。だから『翼』は、一代限りで終わるはずだったんだよ。だのに……」
咽ぶジクロの姿が、サラの目に滲む。
「だのに、僕には出来てしまった……」
(嗚呼ーー)
泣かないで。
父上はもういない。
でも、わたしがいる。ずっと傍にいるよ。
胸が熱い。今すぐ駆け寄りたい。抱きしめたい。口づけたい。痛切にそう思う。
ほんの一歩。ほんの一歩踏み出すだけ。
それで未来が動きだす。
〈魔神の気まぐれだけが砂漠の掟〉
人は、ただその気まぐれに、翻弄され、跑くだけの、ちっぽけな存在にすぎないのだ。
ほら、一歩。
砂漠の風が、遠く、高く、哭いた。
*
七盤山脈山中の絶境〈黒嶺〉に、小ぢんまりとした朱塗りの堂宇があった。
今その室内で榻に横たわり、刺繍入りの方褥に身を沈めているほとんど女児に見える女性が、かの〈黒夜党〉の寨主ファランと知ったら、諸国の王や武官たちも、さだめし仰天するにちがいない。ファランの外貌は、最も古株の近侍たちでさえ、半世紀は変わっていないと噂し合う。彼女の真の年紀を知る者はいない。
銀の煙管を吹かしながらファランは、物思いに耽っている。ここにこうして横たわっているだけで、ナリン砂漠各所に散らばった細作から、様々な情報が入ってくる。堂宇は、彼女がそれを吟味する場所なのだった。
赤獅子侯ヨンの死は、半ば予想通りだったので、さして痛手ではなかった。赤獅子侯の企みも、彼女にとっては同時進行で走らせている幾つかの策の一つにすぎない。
ナリン砂漠中の〈異腹〉たちと連携しているファランの野望は、この大地のどこかに〈異腹〉たちの理想郷を造ることにある。赤獅子侯ヨンの真の狙いもまた同じだった。己がホーロンの権力の座に就き、いずれはホーロンを〈異腹〉の支配する国にすること。
ただヨン・ベルデラントはいささか暴走気味であった。理想郷建設は百年の大計であり、あの様な拙速な手段で成し遂げられるほど容易なことではない。いや、現時点では潰れてくれて善かったとも言える。東方では可兌が再び力を取り戻して蠢動し、西方へ触手を伸ばしつつある。斯様な時宜に、難しい舵取りを迫られる立場に就くのは得策ではなかった。
それとーー。
もう一口、紫煙を吐き出す。
ファランは、気がかりがもう一つあった。ザイロンに、ラムルとアルキンの許を訪ねたときに気づいたのだが、ファランはサラ・アルサムという女性を識っていたのだった。
世に知られることのない彼女の〈異腹〉を〈烏有〉という。〈烏有〉とは、「烏んぞ有らんや」の意。その恐るべき力は、彼女が瞳を向けた事物を現世に全く「ないこと」、「初めから存在しないもの」にせしめることができるのだった。
およそ滅多にあることではないのだが、ときに心動かされればファランがその力を他者のために奮うこともある。ヨン・ベルデラントと初めて出会ったのは、彼に乞われて異能力の秘密を知ってしまった友人を「消した」ときだった。そして数年前の、ある兄妹にまつわる願いもそうであった。
道ならぬ邪恋に懊悩した兄がーー妹が同じ想いであることが、さらに懊悩を深めたーー自らを〈烏有〉で消し去るよう乞うたのだ。
「妹」はかなり興味深い存在だった。特異な資質の持ち主で、言わば彼女自身が〈とりかえばや〉の結節点であった。話によれば彼女は、幼少より何度となく「別の世界」の人間と心が入れ替わったり元に戻ったりしていたと言う。その結果、いつしか二つの精神は混じり合い溶け合って、同じ地下茎を持つ二つの花のような、或いは、離魂病で分かれた瓜二つの離魂のようになった。二人ともが兄を愛し、もはやどちらがどちらの〈サラ〉なのか不分明であった。
ファランが兄の望みを聞き入れ、まさに彼を消滅せしめんとしたそのとき、愛する者の嗅覚でもって妹は立ちはだかった。彼女はーー彼女の「精神」「記憶」はーー〈烏有〉の瞳術にさらされ、この現世から消え去ってしまった。一種の記憶喪失に陥ったのだ。それによってほんのいっとき問題は解決したかに見えた。
ファランは、榻から身をおこすと、連子窓ごしに、真珠色にかがやく暁の七盤山脈の山並みを見やった。
嗚呼、それだのに、それだのに。
まこと魔神は気まぐれ。
またも妹を〈とりかえばや〉が見舞ったのだった。兄への思慕の記憶が消滅した妹の肉体に、再び兄を想う精神が宿った。なんという気まぐれ、なんという皮肉。恋人たちは今度もまた現世で相見えたのである。
そして今。
ファランは待っている。
恋人たちの決断を。
ファランの想像している恋人たちが、果たしてやって来るのか来ないのか、それはファランには予想出来ない。何となればファランの〈異腹〉は、未来を識ることではないのだ。二人がどんな道を選ぶのか、その先に何が待っているのか。それは。
運命の気まぐれしだい。
跋、
ガドカルの民の統治は、この時代ののち、さらに百年続いた。いまも残る〈ホーロン文書〉は、往時の民びとの暮らしを伝える貴重な年代記である。
しかしそこに〈とりかえばや〉に関わることどもは記されていない。ただ稗史のみが、それを伝えている。
了