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にしのとりかえばや(第三十話)
三十二、
その日のことである。凌晨《みめい》に人の気配があり、サラとラムルが身構えていると、旗亭の下階で待機していたボルがやって来て扉越しに低声で囁いた。
「ーー例の別嬪さんだ。怪我をしている」
急いで引戸を開けると、ボルが抱えるようにアガムを支えて入ってきた。介助されながら房室の中に進んだアガムはそこで、芯を失ったように床に座り込んだ。
すぐさまラムルが屈み込んで容子を見る。傷口を検分し、派手にやられている、と唸った。
「これは……素人の手には負えん」
そう言いながらもラムルは、傷を洗う酒と塗り薬、包帯を持ってくるようボルに頼んだ。
「やあ、ご両人、夜分にあい済まんなーー」
そう言っていつもの調子で挨拶したアガムの姿は、しかし凄惨なものだった。装束はところどころ破れ、鮮血が付着している。とくに右腕の傷は深いらしく、血が床まで滴っていた。その手で顔を拭ったようで、両の頬にも乾きかけの血がべっとりと貼りついている。
「御史台と遣り合ったのですね」
ラムルが訊ねた。アガムの笑みに力がない。
「昨夜……一度は大人しく従って官衙に向かったのですがね。今日になって取調べのとき父上が倒れてしまいまして。折悪しく心の臓の発作で……」
「……」
「それでも容赦なく引っ立てようとしたもので、つい手向かいを、ね」
「ーーそれで黒獅子侯のご容態は……?」
「その場では一命は取りとめたようですが……いまだ危うい状態のようです」
父親の窮状を目の当たりにして、いかなアガムといえど黙っているわけにはいかなかったのだろう。
「しかしーーまさか問答無用に斬りかかってくるとは思いませんでした。此方は剣も取り上げられていて空手だったのでーー」
聞くなりラムルが憤慨した。
「卑劣な! 白手の相手に斬りかかるなど士族にあるまじき所業だ!」
「完全に不意をつかれました。或いは初めから老爸以外は殺すつもりであったのかもしれません。一緒に捉えられていた私兵たちは悉く斬り伏せられていましたから。わたしも初っ端に右腕をやられて……死に物狂いで剣を奪取したものの防戦一方でーー」
それでも多勢に無勢を凌げたのは、アガムの腕前があったればのことだろう。命からがら窮地を脱したアガムは、御史台から遁走した。満身創痍で身を隠しながら城市中を彷徨き、夜を待ってここにやって来たというわけなのだった。
ラムルがひとまず応急の手当てをした。押し殺してはいたが、時折、アガムが苦悶の声を漏らした。
「早急にきちんとした杏林に診てもらわねば。とくに腕の傷は縫ってもらったほうがいい。金創を甘く見てはいけません」
ラムルが実感の籠った声で言う。そうしている間にも、アガムの顔色はどんどん悪くなっていた。だのに紅い唇がやけに目立つ。一種、凄艶な残酷美であった。失血のためか、次第に意識が途切れがちになっている様ですら奇妙に艶かしい。
ひととおり処置を終えたころ、ボルが慌しく駆けこんできた。
「まずい。周りに人が集まっている」
早口で告げる。
「御史台の手の者でしょう……」
熱で潤み始めた眸を向けてアガムが、苦笑を漏らした。
「どうやらわたしが連れてきてしまったようですね……」
「ここを出たほうがいい」
ボルが言った。
「三人ともどうかお逃げを。わたしが時間を稼ぎます」
アガムは剣を握って立ち上がろうとするが、膝に力が籠っていないようであった。額には脂汗が滲み、乱れ髪が首筋に貼りついている。それを押し止めたラムルが、真剣に諭した。
「呆子を言わんでください。今度こそ本当に死んでしまいますよ。ボル殿、他に蔵身地はあるか?」
「ない訳じゃないが……」ボルが必死に頭を絞っている。「あったとしても貧民街がいいところだ。不衛生だしそれに、そんな場所じゃ杏林は近寄りもせん」
ボルが吐き棄てるように言う。
「ガスコン小父さまのところはどう?」
思いついてサラは提案した。あの優しい細君を巻き込むのは忍びなかったが、緊急避難である。
むう、とラムルは思案し、やむを得まいと言った。
「裏は?」
「もう手が回っている。が道幅が狭いから人数は多くない。ーーそいつらは俺が引き受けよう」
ボルが隠していた鉄棍を取り出して、しごいた。
「だめ! 一緒に逃げなきゃ!」
慌てて止める。ボルは我が身と引き換えに、サラたちを逃がそうとしているのだ。だがこれ以上、誰かが犠牲になるなんて耐えられない。
「小姐ーー」
ボルがひどく優しい眼で言う。
「以前にも言ったが、俺はガイウス様に恩義がある。だがガイウス様はそれを返す前に逝っちまった。だから娘のあんたに義理を果たしたいんだ。俺を不領情のままにさせないでくれ」
「でもーー」
「サラ、ボルの言う通りにしよう」
決断を下したのはラムルであった。
「すぐに出るんだ。アガム様、立てますか?」
ラムルがアガムに肩を貸して起こし、身支度を始める。
「なあに、俺に掛かれば御史台のへなちょこどもなぞ物の数じゃない。それとも俺が信じられないか?」
言葉に出来ない想いが胸に迫る。涙ぐみそうになるのを、サラはグッと堪えた。
「ーー絶対に死なないで」
ボルが、ニカッと不敵に笑った。
ラムルとボルが無言で抱擁し合う。
アガムを助けながら、屋外へ続く急な階段を何とか降りきった。素早く様子を窺うと、
「行くぞ」
とボルが先陣を切って飛び出していった。たちまち、小路の左右から御史台の警吏が押し寄せてきた。
「扮ッ!」
軽々と振り回した鉄棍が、突っ掛かってきた警吏を薙ぎ払った。敵方は半円形に退いた。ボルは身を翻して左方向に進み、そちら側から詰めてきていた警吏を、集中的に攻め立てた。
長兵器の利点を活かしたボルの棍遣いは、敵を寄せ付けない。鋭い打突と意表をつく脚払いを組み合わせ、瞬く間にそちら側の警吏を無力化した。
「急げ!」
ボルが開いた血路に、サラたちは飛び込んだ。アガムを負ぶったラムルが先頭に立ち、サラが殿を務める。二人を行かせると同時にボルは、今度は右側からの敵に立ち塞がった。
「おおッ!」
雄叫びと共に、鉄棍が唸りを上げる。怒号と悲鳴が沸き起こる。加勢に向かいたくなるが、ボルの心意気を無にするわけにはいかない。屠殺場の禽獣のように横たわる警吏たちを乗り越えて、後ろも見ずにサラたちは全速力で走り出した。
幾つもの小路を折れて前進した。想定していた逃走経路は、家々の隙間を縫うような路地であった。いざとなれば左右に迫る建物のどこかに身を潜めるつもりであった。しかし一刻も早くアガムに治療を受けさせねばならない今、そうもいかぬ。一か八か運河沿いの通り易い路を選ぶしかない、と二人は頷き合った。
辺りに警戒しながら歩いて行くが、アガムを背負っているラムルは、徐々に顎が上がってきた。と、四つ辻で追っ手にばったりと出会した。
「賊めっ!」
殺到しかけた対手に立ち塞がるとサラは、懐から取り出した布袋を投げつけた。
「げえっ!」
たちまち追っ手が悲鳴を上げた。先般、使わずじまいだった黒蓮散である。独特の臭気が一帯に漂う。鼻と口を押さえた二人は、いっさんにその場から離脱した。
*
「サラちゃん、よく無事でーー」
サラの顔を見たガスコン小父は、声を詰まらせた。しかし一目で事情を察すると、達者を喜ぶ間も惜しんでテキパキと差配をし出した。細君に信頼する杏林を密かに呼びに行かせ、アガムの手当てさせた。
治療後、医師は彼を動かすのに難色を示した。無理に連れ出すと傷が開くという。それにひと一人を隠密理に移動させるのは難事であった。やむを得ずアガムは、ガスコン宅の内客庁に匿ってもらうことになった。ガスコンはサラたちには別の蔵身地に移るよう促した。
危うく夜が明けるところであった。サラたちが潜り込んだのは、金吾衛の官舎で空房子になっている建物であった。まさか官府の建物に潜んでいるとは思うまい、というのがガスコンの言い分である。丈八灯台照远不照近というやつです、とガスコンは片目を瞑った。
そのガスコンが、一旦、出仕していた金吾衛から戻ったのは上午であった。
「あの漢子は、御史台に捕まったようです」
ガスコンは、ボルの容子に探りを入れてくれていた。ボルは御史台の警吏をかなり手こずらせたようだが最終的には捕まって、サラも入れられたあの石牢に繋がれているという。
「そうですかーー」
サラは心が沈んだ。あらためてボルの陽気さに救われていたのだと感じた。
「ガスコン様に折り入ってお話がーー」
調度のない、がらんとした房室の真ん中にラムルが帛布を広げた。ガスコンとサラが覗き込む。それは、ホーロン城内を表した帛布の絵図であった。
ガスコンはすぐさま意図を察したようだった。
「いかんぞ! 無謀だ!」
厳しい表情で諌める。
「でも、もうそれしか手がないのーー」
サラの思い詰めた表情に、小父さんが絶句する。
ラムルとサラは、もし期日までに真犯人をさし示す証が掴めなかった場合、ジクロとジナをーー今やボルをもーー実力で取り戻さねばなるまい、と考えていた。
ラムルが話を進めた。
「我らとて可惜命を無駄にするつもりはありませぬ。だからこそガスコン様にご指南をたまわりたいのです。知っての通り、東の広場は見通しがいい。処刑台は広場の真ん中に拵えられる。当然周りは厳重に警備されると思われます」
「つまりーー広場に着いてしまったら手の打ちようがないということね」
サラが引きとった。
「ああ。だから仕掛けるとすれば、御史台からーー」
とボルは、地図の一点を指した。そのまま指を滑らす。
「ーー引き回しされて広場まで至る、この間しかない」
「どんな手段を使えばいいんだろうーー」
サラは地図を睨んだ。
ガスコンが絵図を眺めて、唸りを上げる。
「やはり不可能だ。敵は、此方が二人を取り返しに来るのを折り込み済でその為の防備も充分している。これ以上ないくらい道々に警備が敷かれるだろうーー」
「……」
サラは唇を強く噛んだ。太守への不軌は当然、最も重い罪である。棄市どころか、鉞で胴体を切断する腰斬刑が待っている。この刑罰は冥府の苦しみを伴うと言われ恐れられていた。だからこそ、絶対に助けねばならなかった。たとえ罠だと分かっていても、二人を見捨てるくらいなら自分が捕まる方を選ぶ。
サラの決意を見て取ってガスコンは、ため息をついた。
「手だてを思案してみたのですが……」
ラムルが付け加えた。
「と、いうと?」
懐疑的な表情でガイウスが訊いた。一方、どんなものにでもすがりたいサラは、ラムルに熱い視線を送る。
ラムルが考えていた一つ目の案は、直接、御史台の牢を破るものであったが、これにはボルの力が必要だった。〈夢繰り〉を用いて牢番に開けさせ、奪還するつもりだったのだ。だが今となっては不可能事である。
「二つ目は、当日に決行する計画だ。引き回しの途中に一行は必ず橋を通る。ホーロンは水路だらけだからな。渡る地点はーー」
ラムルは絵図を指差した。
「ここかここで間違いないと思う。他の橋は狭すぎるからね。そこで橋上で襲撃して、二人を橋から水路に落とす」
「ええ?」
思わず聞き返す。
「その橋の下に、小舟を用意しておくのだ。二人を舟で受け止め、そのまま舟で水路を伝って逃走する。ただーー」
「水路には遮るものがない」
ガスコンが言葉を継いだ。左様です、とラムルが応じた。
「水路では、近づくのも逃げるのも丸分かりです。つまり何らかの擬装か、敵の目をそらす手立てがいるーー」
サラは暗澹となった。到底、確度が高いとはいえない計画であった。然りとてもっと善い計画が自分に浮かぶかと言うと怪しい。
一座にやるせない沈黙が落ちた。
「くれぐれも二人とも早まるってくれるな」
ガスコンが厳重に言い置いて、勤めに戻ろうと戸口を開けたときである。
「うわっ!」
頭を抱えてガスコンが、大きな身体を縮こまらせた。羽ばたきと共に、鳥影が飛び込んできた。
「タルガ大姐!?」
それはマルガの相方の紅隼であった。小狭い室内を窮屈そうに一周してからタルガ大姐は、渋々といった体で床に降り立った。
サラは、おっかなびっくりながらも、そろそろと近づいた。
「マルガから書信を預かっているのね?」
鳥は「さっさとしろ」と言わんばかりにそっぽを向いた。手を伸ばして、鳥の脚に結ばれた紙片を取った。
「サラちゃん、それは?」
ガスコンがいささか気味悪そうに紅隼を眺める。
文字を食い入るように追ったサラは、マルガと施した仕掛けが、首尾良く運んだのを知ったのだった。