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にしのとりかえばや(第一話)

序、
 そのころ、ホーロンを治めていたのは、北方から到来したガドカルの民であった。
 大陸の、東西交易の大動脈たる碧天へきてん南路なんろと、南方諸国から北上してきたクシュ街道が、ナリン砂漠の東端とうたんで交わる地点〈溺れ分岐〉にあるのがホーロンである。ホーロンはナリン古語で「東の綠洲オアシス」の意。当時は都市の名、国の名でもあった。
 遡ること三百年の往古むかし、東の大国・可兌カタイの冊封を受けていた砂漠の味水うましみずを、ガドカルの民は略奪者として貪った。そして故地の本国が内部分裂によって亡びた後も、ホーロン在地の農耕民の上に、〈士族スキュロ〉という新たな階級を設け、支配者として居座ったのである。
 遊牧騎馬民の彼らは、良くも悪くも、綠洲オアシスの富を掠めとる以上のことを在地民に求めなかったゆえーー既存の政治制度と官制をそっくり残した上で、抜かりなく自分たちが独占したがーー表面上は、実に穏やかな統治となったのであった。
 正史に載らない民びとの物語を、稗史はいしという。
 後世の年代記の記述にない、しかしそのじつ、綠洲オアシスの小国をゆるがす出来事の始まりは、飛竜舞う年の、青蛙せいあの月から火鳥ひどりの月へ移ろうあたり、時季ときあたかも、隊商たちが忌み怖れる酷暑期ガドの入り口のことであった。

逸、
 濃い夜闇よやみのわだかまる、新月の深更しんこうだった。冥い曇天には瞬く星一つなく、町筋は黒く塗りつぶされていた。砂漠地帯の夜気は、昼間の熱をあっさりと宙に解き放ち、今は外被マントをしていても身震いするような冷たさだった。
 静まり返る上級士族スキュロ里坊りぼう(さいの目に区分された区域)を、ひとりの偉丈夫が歩いている。手持ちの灯籠あかりは足回りしか照らさず、暗闇を漂うそれは妖しい鬼火ザザのようであった。
 典型的な武官のなりで、短い丈の上衣にズボンを穿き、柔らかい革のくつを履いている。革の帯には、わずかに反りのある剣を佩いていた。
 男の頭の中は、いましがたのさる邸第やしきでの一幕に占められていた。豪奢な毛織物の壁掛けと、銀の香炉から薫香くんこう立ち昇る私室で対峙していた相手のかお。その眼が放つ、仮借や妥協とは縁のない、冷酷な光。それを思い浮かべ、あらためて背筋に戦慄がはしった。
(あの方は、かような不手際を許さぬのだ)
 ある程度の危険は、はじめから予想していた。そのために慎重にことを運んできたつもりだった。あと少し、あと少しですべてが上手くいくはずであった。それが……。
(ーーよりによって金吾衛きんごえい捕吏とりかたふぜいに嗅ぎつけられるとは)
 ぎりり、と奥歯を噛みしめる。再び「あの方」の顔がよぎり、男はいま一度、身を震わせた。
(ーー早急に手を打たねばなるまい)
 知らずのうちに歩が速まる。
(まずはーー)
 男の頭の中で、幾つかの応手が交錯した。葉子戯ホウス(一対一でおこなうカードゲームの一種)の手を考えるのと同じだ。場に出されたふだを観察し、敵のねらうやくを読む。
(捕吏の動きをどう封じるかだが……)
 そこまで考えたとき、男の足がふいに止まった。自分でも理由のわからない、無意識のうちの行動だった。男の剣士としての本能がそうさせたのである。
 男は背後にかすかな、本当にかすかだが何者かの気配を感じとった。
 再びゆっくりと足を踏みだす。滑らかさに、油断のなさが加わった足運びだった。
 従者を連れていないことを、男は後悔した。余人をはばかる秘事だ。あえて一人での道行きだった。それに、自らの腕をたのむところもあった。
 ホーロンは、交易路を行き来する旅人たちに〈剣の都〉と呼ばれている。
 〈溺れ分岐〉から南へ二日の小山の麓に、刀工たちの集まる刀剣の産地があって、ホーロンは昔からそこの品物を独占的に扱っていた。やがてホーロンは、刀剣商人、こしらえをつくる職人、甲冑屋、旅の武芸者などが自ずと集まる都市となったのだった。
 ことに太守たいしゅロカンドロンの一族は尚武の気風つよく、産をとわず武人や剣客を招聘しょうへいして士族たちに武芸を奨励しょうれいしたので、街中には無数の剣術武館どうじょうーー〈修練場しゅうれんじょう〉が覇を競うこととなった。
 〈ホーロン七剣〉ーーとりわけ名高い歴代七人の剣客ーーそのうちのひとりが男、宮中警護の衛士を束ねる衛士令えいしれいバダンであった。
 警戒と同時にバダンは、敵を迎え撃つべく、頭をめぐらせてもいた。この場所では襲ってこまい、とバダンは判断した。左右に連なる日乾し煉瓦の塀が、存分に剣をふるうのを妨げるからである。
 バダンの邸第やしきは、宮城を背にして南西に下った里坊まちにある。辺りの様子は知悉していた。
 路地を抜けると、水路べりの少し広い街路に出る。仕かけてくるとすれば、そこにちがいなかった。
 東の碧天山脈から地下をつたってきた雪融け水が岩盤にあたって湧きだし、ナリン砂漠のただなかに、夢幻境めいた綠洲オアシスを出現させた。縦横に水路をめぐらした街並みは、ホーロンの豊かさの源泉をあらわしている。
 しかしいま、恩寵のはずの水分をふくんだ夜気が身体にまとわりつき、心なしか粘り気をおびてきたようだった。
 思うように空気が胸に入ってこない。息苦しさに喘いだ。寒さにもかかわらず、じわり、と汗が吹きだしてきた。
 そしてバダンの予測は、あっさりと裏切られた。水路沿いの竜木樹の並木がみえるよりも早く、背後の気配が大きく膨らんだ。次いでこちらに向かって疾走する足音。
 はじかれたように身をひるがえすと、振りむきざまにバダンは抜刀した。
 あらわれたときと同様に、唐突に足音がかき消えた。
 短く鋭い刃唸り。バダンの眼に、ゆらりと闇が揺れたように映った。それが最後の光景だった。
 次の瞬間、腕自慢の剣士バダンのくびは、深々と切り裂かれていた。手練てだれの武人が、ひと振りする間もなかった。
 衛士令えいしれいの手から力なく剣が滑り落ち、身体が、どう、とその場に崩折くずおれた。
 バダンの腕が一度、ひくり、と持ち上がったようだった。それきり衛士令は動かなくなった。
 暗殺者はそのさまを、最後まで見とどけていた。闇が凝り固まったように微動だにしなかった。
 やがてーー。
 息ひとつ乱したふうもなく、暗殺者は飛鳥ひちょうのように去っていった。

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