![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106739905/rectangle_large_type_2_0d446dfaa45c22526b56453a7c2f4a64.png?width=1200)
にしのとりかえばや(第二十六話)
二十八、
闇夜の黒い帷が、城内に降りていた。紫紺の天蓋には、小さな耀きがばら蒔かれていた。屋根の上のサラには、手を伸ばせば螺鈿めいたそれを掴み取れそうな気がした。
その夜空を切り取って、なお晦い大宝塔の威容が屹立していた。こんな遅い時刻に西市を訪れたことのないサラの目には、大宝塔は殆ど原初の巨人のように映るのだった。
六角形の底辺を持つ塔の足許に、無数の人影が蟠っていた。市場に連なる店肆の屋根に潜むサラたちからも、その姿が朦朧と認められる。傍のラムルとボルが、踏みつけた瓦が音を立てないよう、彫像のようにじっとしている。幽かな呼吸だけが二人の存在を教えてくれる。
(こんなに沢山の人たちが……)
サラは自分が恵まれていたのだと改めて感じていた。人影の多くは破落戸ーー農村で食いつめ、城市に流入した元農民ーーであった。
(でも、この大勢の中からハーリムを見つけるなんて出来るのだろうか?)
灯りを落とした店肆や小路の暗がりに、三十人からなる御史台の警吏や監察御史のシクマが息を殺している。彼らはどうやってハーリムを見分けるのか? しかもサラたちは、彼らの手から医師を奪取せねばならないのだ。
考えた手筈はこうだ。
御史台はハーリムを何としてでも生捕りにしたいはずだ。医師の口から証言を得られねば、事件の全容解明は難しい。すでに、二輪の囚車(囚人を護送するための檻車)が用意されているのをマルガが確かめている。その囚車が、御史台の官衙に向かう道すがらを狙う心算であった。
まず、薬ーーサラも酷い目にあったブリル大湿原産の黒蓮散ーーを護送の一行にお見舞いする。布袋に容れてぶつけるだけなので、中身が充分に四散するわけではないが、それだけで効き目はあるはずだ。だが混乱に乗じて医師を拐うのではない。味方の人員は三人のみで、正面から当たれば多勢に無勢である。この初手の要諦は、黒蓮散の効果によって敵方に、一時的な意識低下を作り出すことにある。
二手めは、その精神の空白を衝いて、ボルが〈夢繰り〉を行うーー警吏を操り、囚車ごと囚人を奪い去ろうという計画なのである。似た手口を使ったことがあるというボルは、〈夢繰り〉そのものには自信があると請け負った。ただこれには難点があり、〈夢繰り〉の最中、今度はボルの身体が無防備になってしまうのだという。故に、精神を跳ばしたボルの身体を守るのは、サラの責務なのであった。
「俺の抜殻を頼むぜ、小姐」
ボルが緊張を解そうと片目を瞑っておどけたが、サラは重圧で硬い笑みを向けるのが精一杯だった。
夜は、じりじりと鈍い歩みで更けていった。妙に生暖かい風が出て来た。隣接する里坊から洩れる僅かな外灯が、朧に塔の辺りを浮き上がらせている。
「動いた」
ボルが低声で囁いた。指し示した先に、薄明かりの中を花子たちに向かう人影があった。
「あれはーー」
小柄なその人物は、西市を取り巻く隔壁が閉じられる以前に、敷地のどこかに隠れていたに違いなかった。そいつが破落戸たちの屯する辺りに近づくと、大宝塔の濃い物陰の中から花子が一人立ち上がった。人影の前に進み出た花子は、垢じみた身形で、頭には布をほっかむりしている。
御史台が一斉に動いたのはそのときである。暗がりから数人が現れ出でて、花子に殺到した。すでに抜刀している者がおり、数人が捕縄を手にしている。花子は咄嗟に逃げようとしたが、あっさりと行く手を阻まれた。鋭い警告が飛ぶ。
「上意である! おとなしくしろ!」
「手向かい無用! 縛につけ!」
御史台の警吏たちは、瞬く間に花子を取り囲んだ。花子が人影を後ろにさがらせて、庇うように両手をひろげた。無数の灯籠が辺りを照らし出した。
恐怖の色を浮かべた花子ーーハーリムの高い鼻と、人影ーー孀の貌がハッキリと映し出された。
「ようやく捕らえたぞ!」
人垣の中に、ずかずかと長身の男が進み出た。昂奮で上ずった声のそいつは、監察御史のシクマであった。黒の長袍に、抜き身の剣を提げている。
シクマは空いている方の手を伸ばすと、無造作にほっかむりの布をむしり取った。現れたのは、面窶れした似顔絵と同じ顔であった。
医師が手荒く扱われるので歯噛みしていたサラだが、
(ーーようやく会えた)
と言う思いで、奇妙な安堵をも覚えた。一度とて顔を合わせたことがないにもかかわらず、何故か昔からよく知っていたような気さえした。
「傻子め!」
シクマが嘲笑った。
「汝の浅慮などお見通しよ!」
勝利に酔いしれるシクマを尻目にサラたちは、気づかれないように慎重に屋根の上を移動し始めた。計画には反するが、ハーリムが傷つけられそうになったなら、円陣に突入するしかない。
シクマはさらに侮蔑を浴びせようとしたが、言い終えることは出来なかった。
「うおっ!」
「なんだ、此奴め!」
人垣が俄に騒めき出した。見ると警吏の男一人が、同事を弾き飛ばしながらシクマの方に近づいていく。
「放肆! 何事だ!」
シクマが叱責するが、件の警吏は意に介さず進んでいく。慌てて周囲の警吏が取り付いて、そいつを地面に押さえつけた。一人が捕縄で、素早くそいつを後ろ手に縛めた。
ところがーー。
押さえつけられた警吏が、尋常でない膂力を発揮して踠いた。取り付いていた同事たちが思い切り圧しかかるが、信じられないほどの剛力でもってそれを跳ね除けた。そして後ろ手にしばられたままハーリムに殺到しかかった。新たな警吏が四人、纏わりついて必死にそれを阻むが、大人に取り付く小童みたく引き摺られる始末である。
すると、一同が肝を潰す事態が卒爾として湧き起こった。シャアアアアアア、という獣じみた叫びが夜を切り裂いた。異音の主はかの警吏であった。男は獲物に襲いかかる野獣さながら口を開け、首をあらんかぎり伸ばす。すると見よ、男の鼻面が、飛び掛からんとする意思そのままに、獣のごとく、にゅう、と前に突き出たではないか。まさしくそれは野獣の貌であった。
ぶつりーーぶつりーーぶつりーー。
物を力まかせに引きちぎるおぞましい響きがした次の瞬間、男の首だけが胴からずぼっと飛び出した。〈首〉が飛んでいった先は、ハーリムの喉笛であった。
「ごふっ!」
強靭な顎がハーリムに喰らいつき、喉笛をバリバリと噛み千切った。ハーリムが、糸の切れた操り人形のごとく、カクンとその場に崩折れた。孀の悲鳴があがった。ギャアッと、シクマの口から魂切る叫びが迸った。
「くそっ! 〈飛頭蛮〉だ!」
ラムルが叫んだ。サラたちは屋根から飛び降りると、円陣めがけて疾走した。大宝塔の足許は、阿鼻叫喚に包まれた。サラが到達したときには、シクマは惑乱のあまり茫然自失の体であった。腰を落として魂が抜けたようになっていた。
「こいつめ!」
ボルが棍棒を振り下ろす。が、〈首〉はそれをかわすとまるで禿鷹のように旋回する。ボルが檄を飛ばすと警吏たちが弾かれたようにてんでに〈首〉に躍りかかった。しかし〈飛頭蛮〉は悠々とそれをすり抜けた。警吏の攻撃はどこか腰が引け、統率とれていない。〈首〉は嘲笑うかのようにシャアアとひと声吠えたのを汐に、恐るべき迅速さで遠ざかっていった。
あまりの怪異に警吏たちは、悪夢の中に叩き落とされた如く呆然となっていた。その隙をつかれた。〈胴体〉が、〈首〉のないまま起き上がった。そして後ろ手に縛られた状態とは思えぬ機敏さで蜻蛉を切ると人垣を抜け出した。驚くべき迅速さで駆け出す。あっ、と気づいたときはもう遅かった。〈胴体〉は暗がりに溶けるように消え去って行った。
孀は、魂を抜かれたかのように、ペタンと座り込んでいる。両の腕には嬰児みたく医師の体を抱えている。医師の胸には、無惨な血の痕が滴っていた。孀が嗚咽を洩らし、それはやがて慟哭にかわった。
「ハーリム先生……」
ふらふらと近づくサラの耳に、呼子の音が飛び込んできた。
「ち、お出ましだ」
ボルが舌打ちをした。騒ぎを聞きつけた金吾衛がやって来る。ラムルがサラの肩をつかんで離脱をうながす。孀をボルが揺らしたが、反応はない。
「連れていくのは無理だ。急げ!」
根の生えてしまった孀を残して、ボルは駆け出す。ラムルがサラの腕を引っ張り強引に歩かせた。
夜がいっそう冥くなったようだった。