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にしのとりかえばや(第三十一話)
三十三、
靶子は、店肆に入ったきり動いていなかった。
まだ上午の早い時刻であった。蜂蜜色の陽射しの下、白っ茶けたホーロンの中央広場は、いつもと変わらない賑わいを見せていた。行き交う旅人は引きも切らず、彼ら自身が河の流れそのもののようにサラには思えるのだった。
その往時、可兌文化が流入する以前は、中央広場は幕屋の摊子が密集する、もっと猥雑な場所だったという。そののち、可兌の冊封を受けるとこの場所は、石畳を敷き詰めた広場になった。広場の中心にはその頃の名残があった。最下部に円筒状の低い台基のある八角形の石柱が屹立しているのだ。柱身の各面に可兌文字で経文が彫られているそれは、無論、天神エフリアとは何の関係もない異教の礼拝対象だが、驚くほど他民族の信仰に鷹揚なガドカルの民は一向に気にする風ではない。
現在、広場の周囲は上つ方向けの、堂々とした店面の大舗子が軒を列ねる殷賑地となっていた。闊佬専用の長行店(旅行業者)、煌びやかな店飾りの綵纈鋪、落ち着いた外観の兌房等が厳めしい顔つきで庶民を拒んでいる。
宮城が、方形の城市のやや北寄りに位置しているのに対し、中央広場は文字通りホーロンの中心にある。碧天南路とクシュ街道のまさに交差地点〈溺れ分岐〉の象徴が中央広場なのである。
サラとラムルは、広場に面した茶館の席についていた。のんびりした征夫を装い、向かい合って茶を喫している。茶館は可兌様式を色濃く残していて、窓枠の格子は可兌の吉祥文字を模した凝った造りである。その格子越しに、カリムが入った兌房の入口が見渡せるのだった。
昨日、侍医団長の許に渡った書信の文面は、太守弑逆に関してカリムを実行犯と名指しする内容になっていた。その上、事件の牽線人として赤獅子候の名前を挙げてある。これを受けとればカリムは、何らかの措置を講じざるを得ないと見越しての罠であった。
取次役の女に圧力を掛けたのも覿面だったが、驚くのはカリムの逃遁の早さであった。マルガの監視によると、その日のうちに身の回りの財貨を妻子に持たせ秘かに出奔させたーー尤もあの取次役の女性も同行させたのは意外であった。彼女はカリムの外遇だったようだーー自分は残りの財産を飛銭などに換えるために一人残ったのだ。
なに喰わぬ顔で邸第を出たが、おそらく戻るつもりはないだろう。長行店で馬と駱駝を手配済みであることもサラたちは掴んでいた。
格子の向こうから、秋の気配を感じさせる物憂い光が卓子に薄い影を投げかける。そのゆったりとしたきらめきに、眠気を誘われた。疲れが溜まっているのかもしれなかった。
サラは頭をふると、小さく伸びをした。その拍子に伸ばした爪先が、こつんとラムルに触れた。ごめん、と囁く。む、む、とこれは、ラムルの応えである。何やら長年連れ添った伉儷のようで、サラはいささか落ち着かなくなる。
(集中しないとーー)
目をパチパチと瞬く。店に裏口がないことは確認済みだった。ここから目を離すわけにはいかない。サラはこみあげる欠伸を堪えると自分の腿を強くつねった。そのとき、
「出たぞ」
とラムルが、短く言った。
店内から夥計が先に出てきて、丁重にカリムに頭を下げた。カリムは後ろも見ずに早足に歩き出す。サラたちはすぐには追わなかった。次の行き先が、広場の向かいの長行店と分かっていたからだ。
異変は、カリムが広場を横断しているときに起こった。八角柱に差し掛かったカリムの歩みが鈍った。急に身体の自由が利かなくなったみたく、足を引きずるような動きになる。ついには立ち止まってしまった。進みたい意思はあるのに足が拒否しているーーそんな容子に見える。
「おかしいーー」
サラは思わず立ち上がった。ラムルも同じ思いのようだった。銅銭を置いて二人は席を離れた。
広場の真ん中には、人だかりが出来はじめていた。その半円形の中で、ギクシャクした明らかに不可解な動きのカリムが、辻説法の行者のように、あるいは街頭芸人の口上のように大声を張り上げた。
「天神エフリアよ! 冥府の総司にして死者の裁き手、冥府王アラーラよ! 我は今ここに告白し奉る!」
サラとラムルは人をかき分けて進んだ。カリムが弁舌をふるい出す。
「我、畏れ多くもユスナル・ロカンドロン陛下を弑し奉るなり!」
人だかりに響動きが波紋のように拡がった。あまりにも恐ろしい告白であった。喋りながらカリムは、いやいやする幼児のように首を振る。目は恐怖に見開かれ、水を被ったように汗が顔を伝っている。しかしカリムの言葉は止まらなかった。
「冥府王よ、慎んでお願い申し上げる! 斯かる大罪を償わんがため、我に僕従を遣わしめよ!」
茶番劇だ、とサラは胸の裡で吐き捨てた。どこかにアクバが潜んでいて、〈異腹〉の異能力〈口移し〉で喋らせているのだ。そしてその瞬間、次の展開が読めた。顔を見合わせたラムルが、サラの眼を覗き込む。それでラムルも同じ思いだと知れた。二人は同時に空を見上げた。一同が倣った。
金切声が沸き上がった。何人かが、ワッと退いた。尻もちをつく者さえいた。その場の誰もがーーサラとラムルを除いてーー白日夢を視ていると思ったに違いなかった。或いは己れが発瘋になったと。八角柱の上方に、忽然と無気味なものが立ち現れていた。獣とも人とも知れぬ、首だけの人妖ーー〈飛頭蛮〉ワルラチだ。
その人妖ーーワルラチがふいに急降下した。サラたちも飛び出した。
このときカリムに急接近した物体は三つあった。初めに到達したのはサラーー正確に言えばサラの振るった剣ーーであった。但し手首を返し、刃のない部分でカリムの片足を打ったのである。
到達した二番手はワルラチである。いつもの如く喉笛に喰いつこうとして僅かに旋回したことと、サラに痛打されてカリムの体が傾いだことで、目標を外してしまった。しかし強靭な顎はカリムの肩の肉を噛み千切った。
三番手は迅速さと精確さでは、図抜けていた。神速の飛鳥タルガである。ただこの猛禽はカリムの身には頓着していなかった。寧ろ、ワルラチがカリムに喰いついた一瞬の静止こそ好機と考えていたのかも知れない。とまれ、カリムの肩を噛み千切った瞬間、紅隼の鋭い嘴と鉤爪が、ワルラチを捉えていた。ギャッ、と〈飛頭蛮〉が獣じみた悲鳴を上げた。これらは、実際には瞬き一つほどの間に立て続けに起こった事どもで、周囲の人だかりにはほとんど同時に感じられたのだった。
倒れたカリムにサラが駆け寄り、それにラムルが手を貸して引き摺っていった。上方では〈飛頭蛮〉とタルガ大姐が、ひと塊のまま縺れあって蜂のように飛び回っている。
「退いて!」
と、そこに雄叫びを挙げ突撃してきた者があった。羅を纏った肉感的な女性が、細腕に似合わぬ長兵器を肩に担いで、殺到してきた。マルガである。
「曳っ!」
マルガは疾走の速度をゆるめず、そのままワルラチに斬り込んだ。マルガのそれは細く長い刀身の眉尖刀だが、長柄が金属製で重量のある得物であった。鋭い体移動で足を送るとマルガは、重量を生かした斬撃をワルラチに見舞った。
やはり、マルガとタルガの連繋は際立っていた。折しも紅隼が〈飛頭蛮〉を八角柱に押さえつけたところであった。八角柱ごと断ち斬らんばかりに振り下ろされた刃が、〈飛頭蛮〉を真っ二つに斬割した。刃が柱に食い込んで、ガチッ、と火花が散った。
こうして〈黒嶺〉の報仇は成った。
うつ伏せに倒れたカリムの体の下から、赤黒い液体が地面に這いだしてきた。
サラは、頭を廻らしてアクバを警戒した。
(また逃がしたか!)
「サラ! 見ろ!」
ラムルが、必死にカリムを介抱している。
「まだ息がある!」
ラムルが叫ぶ。カリムの口から、苦痛の呻き声が漏れた。生きている。僥倖にも、〈飛頭蛮〉の咬み傷は急所を外していた。
二人は必死の蘇生にかかった。