元国語教師が『門』を読み直してみた話
『三四郎』に始まり、『それから』で盛大に盛り上がった「恋」。
さてどうなる『門』。
前作の『それから』では、代助が親友の平岡に「美千代さんを譲ってくれ」と頼み込んだのでした。
平岡も妻の美千代を譲ることを了承しますが、「病身で渡したのでは自分の義理が立たないからせめて回復してからにしてくれ」と告げます。
美千代が平岡のもとで死んでしまうのか、回復して代助と共に生きることになるのかは明らかにされずに物語は終わりました。
『それから』に登場した代助、美千代、平岡にかわって、『門』では宗助、御米、安井が登場します。
『門』あらすじ
宗助は、かつての親友である安井の内縁の妻であった御米(およね)に恋をする。
ふたりは夫婦になったが、社会から隔絶され、身をひそめるように崖下の家でひっそりと暮らしていた。
宗助には弟の小六がおり、彼を引き取り共に暮らすことになる。
しかし宗助夫婦をよく思っていない小六との同居が起因となり、元々神経の弱い御米は寝込んでしまう。
そんなとき宗助は、大家(おおや)の坂井の弟が、友人とともにモンゴルにおり、翌週帰国して坂井の家に訪れるのだと聞かされる。
その友人とはまさかの安井であった。
宗助の心に、時とともに薄れてきていた安井から御米を奪ったときの感情が呼び戻され、苦しみから逃れるために参禅する。
しかし、現実から逃避していることはできないと考え直し、悟りを得られないまま帰宅する。
『門』は秋から冬
『門』は秋に始まり、春先で終わります。
秋から冬の鬱々とした気分が小説を貫いています。
「親友の彼女を横取りするなんてことはよくあることでしょ。そんなに苦しむことじゃないよ」などという慰めはききません。
なんせ『門』は鬱々とした冬の気分なのです。
宗助と御米は鬱々としたなかに居ながらも、二人きりで寄り添い暮らしています。
社会と関わりを持たず、二人の世界で生きている限り二人は幸せです。
ところが、見ないことにしていた安井の存在がクローズアップされることにより、宗助は混乱します。
禅に助けを求めるが
宗助は禅寺で座禅を組めば苦しみから逃れられるのではないかと考えます。
けれども、寺に入って2週間も経たぬうちに、悟りを得ようとすることをやめます。
自分ひとりが悟りを得て救われたとしても、御米や安井は救われないのだという現実に直面したということでしょう。
宗助が禅寺をあとにするときの記述です。
『門』のラストシーン
禅寺からもどった宗助は、「安井はすでにモンゴルに帰り、同居していた小六は坂井宅に書生として暮らすことになった」ことを知ります。
宗助の苦しみの種であったことは自然の成り行きで解決していたということです。
季節は春に向かいます。
御米はそれを喜びます。
けれども「自己本位」である自分、「門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき人」である自分を強く意識した宗助は、春の訪れを喜ぶことができず、「しかしまたじきに冬になるよ」と下を向いたまま爪を切るのでした。
『門』執筆前後の漱石
漱石と禅
1894年、漱石自身も鎌倉の円覚寺に参禅しています。
そのときは宗助と同様、参禅によって悟りを得ることはなかったようです。
けれどもいつかその経験を書きたいと思っていたのでしょうか、『門』後半の1割以上は参禅の話です。
『門』が朝日新聞に連載されたのは、1910年ですが、その4年後の1914年頃から、再び円覚寺の僧との交流が始まります。交流は1916年に50歳で漱石が亡くなるまで続いていたようです。
修善寺の大患
漱石は、『門』執筆中の1910年6月、胃潰瘍で入院します。
非常に体調の悪い中で『門』を執筆していたということです。
この小説の暗さは、漱石自身の体調の悪さとも関係があるのかもしれません。
同年8月、療養先の修善寺で、漱石は800 gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間をさまよう危篤状態に陥ります。「修善寺の大患」と呼ばれるできごとです。
その後、漱石は「死」を意識しつつ、入退院を繰り返しながら執筆を続けます。
後期三部作へ
後期三部作といわれる『彼岸過迄』『行人』『こころ』は、入退院を繰り返しながら執筆されました。
1912年1月~3月『彼岸過迄』
1912年12月~1913年11月『行人』(途中休筆)
1914年4月~8月『こころ』
そして、『道草』『明暗』と続きますが、『明暗』は漱石死去のため未完のままです。
後期三部作、心して読み直そうと思います。