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夏の思い出8(最後の勤務校①共生推進教室)
前回は、高等支援学校勤務時代の夏の思い出を書きました。
今回は、夏の思い出というよりは、「最後の勤務校の思い出」と名付けた方が良かったのですが、何となく続きで書きたかったのでこのままのお題で失礼します。
高等支援学校で勤務して6年目のこと。
A高等学校に「共生推進教室」が設置されることを知りました。
大阪府には、知的障害がある生徒が高等学校で学ぶ制度として、「共生推進教室」と「自立支援コース」があります。
【自立支援コース・共生推進教室紹介リーフレット】
https://www.pref.osaka.lg.jp/documents/9225/r5leaflet.pdf
自立支援コースのある高校は全11校、共生推進教室のある高校は全10校。
どちらも、定員は3~4人です。
「自立支援コース」は、高等学校在籍で、高校版支援学級のような感じ。卒業すると高卒資格がもらえます。
「共生推進教室」は、高等支援学校在籍で、週に1度は高等支援学校で職業に関する専門教育を受けますが、残りの4日は高等学校で過ごします。在籍は高等支援学校ですので、高等支援学校卒業となります。
私は以前から、「共生推進教室」を「いわゆる進学校」に置いて欲しい、と考えており、ことあるごとに訴えていました。
将来日本を動かしていく立場になっていく生徒たちに、「知的障がいのある友人」について知っておいて欲しい、共に生きる社会を作るにはどうすれば良いかを考えて欲しい、と思っていたからです。
新しく共生推進教室が設置されることになったA高校はいわゆる「進学校」です。
私はぜひともA高校の共生推進教室設置に関わりたいと思い、トライシステムという仕組みを使ってA高校の教員募集に応募しました。
面接の結果、A高校への転勤が決まったのでした。
さて、A高校での1年目の夏は、ひたすら勉強の夏でした。
なんせ進学校の国語なんて生まれてこのかた教えたことがない。
初めの16年間は高校に勤めていましたが、どちらかというと勉強の苦手な生徒さんに、基礎をわかりやすく教えることがメインでした。
そして次の16年は支援学校です。
結局教師になって32年間、まともに「国語」を教えていなかったのです。
しかも、高校時代の私は「古典」で欠点を取り続けており…。
大学時代は勉強もせずにアーチェリー三昧…。
私は50代も半ばに差し掛かる頃、やっと国語の教師らしい生活を始めたのでした。
さすがに「現代文」については困ることはなかったのですが、「古文」「漢文」はほとんど忘れていて、毎日受験生のように必死に勉強しておりました。お恥ずかしい話です。
1年目はヘロヘロでしたが、2年目になってようやく落ち着いて授業ができるようになったのでした。
最後の勤務校でやっと「国語の教師」らしいことができて、それはそれでありがたいことでした。大学時代の恩師にも顔向けができます。
そしてA高校に勤務して2年目、いよいよ「共生推進教室」の1期生が入学することになります。
私は「共生推進教室」設置のためにA高校に転勤してきたので、当然、その担当をするのだと思っていました。
ところが、校長から新入生の学年主任に任ぜられてしまったのでした。
「はじめて共生推進教室の生徒を受け入れる学年で、主任として仕事をする方がスムーズに物事が運ぶのではないか」という校長の考えを聞き、確かにそうだとは思いました。
けれども、A高校に転勤してきたばかりの、しかも長らく支援学校で働いてきた、その上「国語」の教科指導にあたふたしている自分には荷が重すぎると感じましたので、「他の方にお願いしてください」と申し上げたのですが、最終的には受けざるを得なくなってしまいました。
そして、怒涛の2020年(そう、コロナ元年)が始まることになったのでした。(続く)