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海神の末裔(三)最終回

 7、
 月は完全に昇りきって、妖しいような銀光で島を染め上げていた。進軍した敵本隊は、〈王宮〉に到達しようとしていた。
 夜風がまた強くなってきた。
 タルスは火口箱から燧石ひうちいしを取り出して、次の一手のために先回りした。
 〈王宮〉の内と外には、予め数箇所、粗朶《そだ》や枯れ草を纏めて火点を作ってあった。とはいえ、配置は勘頼みだし、また、島は湿気が多く、都合よく点いてくれるのかも判らない。相手方が逃げられずに煙りに巻かれるよう、出来るだけ引き付けねばならないが、然りとて、着火にもたもたしているうちに気取られてしまうかもしれなかった。いずれ成功必至の妙策などないのだ。
 本隊が〈王宮〉内の探索に掛かっている間に、素早くことを進めた。火口で小さな松明を作りそれで点火して回る。一通りやり終えると、すぐさま離脱した。
 しかし身を隠す前に、敵兵との遭遇が待っていた。兵士を二人一組にして配し、建物の周りを哨戒させていたのだ。
 出会い頭の戦闘になったのが、タルスに幸いした。相手が剣を構えるより早く距離を詰めた。遠い間合いからの跳び蹴りが、ダルファル兵の戦法にないのは波止場で経験済みだったが、あの時の不覚を再現するつもりはなかった。二人を同時に倒さなければ、此方が殺られる。
 それは矢のような二段蹴りだった。大きく踏み込んで跳び、右の爪先で手前の兵を鳩尾みぞおちを捉えたが、ほとんど同時に左足がもう一人の顎を捉えていた。一瞬のうちに両名ともが昏倒した。
 短い呼気だけが、タルスの小さな凱歌となった。
 
 *
 始めは燻っているだけだったが、火勢は次第に強まっていった。強い風が思いの外、焔を煽ってくれていた。
 ダルファル兵たちの取り乱した声が、洩れてきた。
 侵入した開口部から、ばらばらと男たちが飛び出してきた。立木の根元のくさむらに潜んでいたタルスの目が光った。
 男たちの中の、異質な一人が目についたのだった。真っ先に飛び出してきた、辺鄙な孤島にそぐわない豪奢な紫の長衣には、〈聖なる金糸の魚〉が翻っていた。
 ーーアスカランテ!
 顔を知らなくても、我先にと他を押し退けて出てきた素振りで、見当はついた。しかしその隆とした立ち姿には意表を突かれた。シスへの執着から、司祭カスパ殿はどんな狒々爺かと想像していたが、どうして中々の男振りだった。
 確信したタルスの行動は、俊敏極まりなかった。
 手頃な大きさの石ころを選んで拾うと、アスカランテを狙い済ます。飛礫つぶて打ちは、貧者の戦術の基本で、タルスも得意な領分だった。
 物陰から黒い颶風めいて飛び出すと、一直線にアスカランテ目掛けて殺到し、立て続けに飛礫つぶてを打った。
 先頭にいた為、アスカランテは格好の的になった。吸い込まれるように、飛礫つぶてが、アスカランテの顔面と胸板に命中した。
「ぐえっ」
 アスカランテの逃げ足が止まった。無様な呻きが、立派な身形に対して、酷く滑稽であった。
 接近の勢いは充分だった。体当たりのように、体重を乗せた拳を、アスカランテの腹に突き立てた。
 今度は呻き声さえ、洩れなかった。衝撃は鎖帷子を越え躰の深奥に達し、内臓をズタズタにした。アスカランテの口腔が、大量の鮮血を吐き出した。だけでなく、眼窩からも鼻腔からも血が噴出する。一撃で、アスカランテは絶息した。
 後ろからやって来た兵士たちは、暫し茫然となった。タルスは野生動物に対峙したときのように、相手方をヒタと見据えたまま、後ずさった。 
「無体な上官は死んだぞ。お主らも栄誉あるダルファル兵としての任務に戻れ!」
 なにがしか、痛いところをついたようで、兵士らの足並みに躊躇いが生まれた。
 その隙間にタルスは、疾風の如く走り去った。
 
 8、
 星の瞬きは薄れ、白くなった月が西に沈んだ。代わって薔薇色の曙光が島に射し始めた。
 〈王宮〉の延焼は進んで、無惨な焼骨めいた姿を晒していた。時折、鼻を覆いたくなるような異臭が混じるのは、逃げ遅れたダルファル人が焼けたからだろう。
 タルスは、崖の亀裂の前に立っていた。融通の利かない門衛のように洞窟への入り口に立ちはだかっていたが、兵士たちはすでに何処いずこかへと去っていた。
 辺りは寂として、生き物の気配は感じられない。あれほど吹き荒んでいた風が、ピタリと止んでいることに卒然と気づいた。まるで、この島に独りで取り残されたような、或いは、世界中の自分以外の者たちが知らないうちに死に絶えてしまったかのような、奇妙に不安な心持ちに襲われた。
「ーー終わりました」
 人声に反応して身構えると、背後に幽鬼めいた影が出現していた。いや違う。よくよく見れば影の正体はヴェリタスなのだった。
 しかし何と云う変わり果てようだろう! 一気に二十も三十も歳をとってしまったかのような憔悴ぶりであった。期せずして、先程までの心持ちが甦った。タルスの知らぬうちに、恐ろしい早さで時がけみしたのではあるまいかーー。
 上等な衣服は着乱れて見苦しく、若々しかった肌には皺が刻まれているようにさえ思えた。豊かな巻き毛はざんばらで、洒落者の名残とてなかった。頬は痩《こ》け、瞳だけがギョロギョロと目立つ。が熱病の如く潤んだ双眸は、異様な光を放っていた。
「何とお礼を申し上げてよいか判りませんが、せめて此方をお納めください……」
 ヴェリタスは、片手に下げた報酬を差し出したが、気息奄奄、立っているのもやっと、といった体で、タルスが宝冠を受け取るなり、その場にくずおれる有り様だった。
「おい……」
 抱き上げようとしゃがんだタルスを、ヴェリタスは手を振って押し留めた。
「大丈夫。今、とっても気分が良いんですーー」
 顔色こそ優れなかったが、ヴェリタスの表情はある種の満足感に溢れていた。もはやまなこは、タルスを捉えているかも怪しい。その下に浮き出た隈は、明らかに荒淫こういんの名残りであった。〈儀式〉とは、恐らく三日三晩、シスと目合まぐわい続けることだったのだ。
「あんたら一体……」
「タルス殿……貴方がおかに帰る方途をお伝えします。私は……一緒には行けない」
「じゃあ、誰が船を? 俺には無理だ」
「貴方は……何もなさる必要はありませぬ。今は洞窟の水は引いている。来た道を戻ると、〈鳥影丸〉がそのままになっています。貴方は船に乗っていればいい。さすれば……」
 そこでヴェリタスは咳き込み、ゼイゼイと苦しそうに喉を鳴らした。
「……さすれば、船が自ずと陸まで運んでくれます」
「だが一体どうやって?」
 タルスは不審の眼差しを向ける。ひとりでに船が動くだって?
 疑わしげなタルスに、ヴェリタスは目を閉じたまま、うっすらと笑みを浮かべて応えた。
「御安心をタルス殿。貴方は我らを守り抜いてくださった。今度はーー我が子どもたちが貴方を守るでしょう……」
 それがヴェリタスの最期の詞であった。レンス海いちの名家の跡取りは、こうしてあっさりと濁世じょくせから解放され、身罷みまかったのだった。
 タルスに出来るのは、ヴェリタスの云う通りにすることだけだった。
 亀裂から洞窟に入り、暗くて狭い隧道をひたすら下った。枝道には目もくれなかった。この道のどれかが、シスの元に通じているのだと思うと、ヴェリタスの最期を知らせてやりたい気もしたが、どうしてだかシスは承知済みのような気もするのだった。そして、あの少しぽってりとした肉厚な唇から洩れる無邪気で淫猥な笑い声が聞けなくなるのを、初めて惜しいと感じるのだった。
 降りきった砂地には、話通り〈鳥影丸〉があった。タルスは乗り込むと、どうとでもなれ、と横になった。やがて一晩中動き回った疲れで、ストンと眠りが落ちてきた。
 
 *
 揺れに気づいたときには、船はすでに加速していた。上半身を起こすと、あの無気味な柱群が、傍を流れていった。
 ヴェリタスの云ったことは本当だった。風もない洞窟内で、漕いでもいないのに、〈鳥影丸〉は滑るように動いていた。
 すぐに船は洞窟の口まで達した。そして速度を保ったまま、あっさりと外界へ抜け出たのだった。
 海は静かで凪いでいたが、〈鳥影丸〉は勝手に針路をとって、委細構わず進み続けた。
 島をぐるりと回り、西に船首を向けたところで、それが起こった。
 前方から投槍が飛んできて、〈鳥影丸〉の甲板に突き刺さったのだ。〈聖なる金糸の魚〉をひらめかせた艫が、進行方向に見えた。
 ダルファル兵の生き残りの仕業であった。とっくに遁走したと思っていた戦船の残りが、タルスを見つけ攻撃を仕掛けて来たのだった。上官を討ち取られた恨みを、彼らは忘れていないようだった。鎧張りの船体を並走させて来て、さらなる投槍を寄越してきた。
 このままだと、いずれダルファル兵が乗り込んで来るのは必至だった。敵方は六名。白兵戦で遅れをとるつもりはないが、不安定な海の上のこと、取り囲まれ突き落とされでもしたら、ひとたまりもない。とはいえ、回避したくてもタルスにはどうしようも出来ないのだった。
 タルスは、腹を括って決戦のときを待った。気息を整え、ギリギリと全身の筋肉に力を籠める。ヴェンダーヤの邪行をたっぷりと味わわせてやるつもりだった。がーー。
 そのとき、聞き覚えのある韻律が潮風を引き裂いて届いた。聞き覚えがあったのは、シスが詠ったそれに似ていたからだ。その詠唱が何処からともなく鳴り響いたのだ。
 それを合図とばかりに、戦船の廻りの海水が俄に沸き立った。と思うと間に、天に向けて、何本もの水柱が一斉に噴き上がった。
 〈それ〉の正体が、水を纏った、〈人間ゾブオンならざる人間ゾブオン〉だと知れたのは、四方から戦船に雪崩れ込んだ水の中から、黒い腕が伸びて、ダルファル兵たちを掴んだからだった。捕まった兵士たちがあられもない悲鳴を挙げた。彼等がどんな恐ろしいモノを目撃したのかは判らない。或いは、世界魚ノーグを奉じるダルファル人からすれば、彼等は世界魚ノーグの眷族のように映ったのかもしれなかった。ハッキリと云えるのは、そいつらが引き潮の如く海に戻っていったこと、その際、兵士らを掴んだまま、一人残らず海に引きずり込んでいったことだけである。やがて信じられないくらい波がうねって持ち上がり、戦船を易々と呑み込んだ。蒼く深い海の底に。
 茫然となったタルスの脳裏に、ヴェリタスの詞が木霊した。
 ーー我が子どもたち。
 そう、あれこそが、ヴェリタスとシスの子どもたちーージンガリアの末裔なのだ。〈儀式〉は淫祠邪教の類いではなかった。彼らは、生命体として至極当然の行いをした。後世に子孫を遺したのである。
 ヴェリタスという人間ゾブオンの雄の種子たねが、シスという異種族の雄に注がれて孕み、かえる。その仕組み、命の神秘はタルスの理解を超えていた。が、ジンガリアの謎深き民が次代に命を繋いだ、という事実だけで充分に見事だと思わずにいられなかった。
 タルスはふなべりに凭れ、指先を海水に浸した。〈鳥影丸〉を無事にリューリクに戻してくれる、彼らの子どもたちに感謝の気持ちが伝わるだろうか。柄にもなく感傷的になった己が、少し照れくさかった。
 (了)

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