『MEMORIA メモリア』について

世界は一個の巨大な博物館である。あるいは記録装置である。アピチャッポン・ウィーラセタクンの監督作『メモリア』を見ていると、主人公のジェシカ・ホランドと共に博物館の見学者となって、奇妙な世界(あるいは元々奇妙であることが明かされた世界)を彷徨っているような感覚を覚える。

この作品はアピチャッポンの映画によく見られるように二部構成を取っている。前半はコロンビアの都市メデジンが舞台である。ある明け方、大きな音(作中では大きな鉄球が落ちた音と形容されていたが、大砲の発射音のようにも聞こえる)で目覚めたジェシカは、その音が自分の頭の中でしか聞こえないものだと気付き、音響技師のエルナンという若者の協力を得て「音」の再現を試みる。その過程で入院中の妹を見舞い、考古学者のアグネスと知り合い、そこでトンネル工事現場から発掘された6000年前の人骨を見る。

「音」を再現したテープが完成するが、直後にエルナンは姿を消す。彼の同僚だったはずの者たちはエルナンという人間など知らないという。退院した妹との会話もなぜか記憶が食い違っている。頭の中の「音」は鳴り続けている。

後半は都市から森へと舞台を移す。人骨の採掘現場を訪れたジェシカは、これまたエルナンと名乗る、一人目のエルナンより少し年老いた男に出会う。彼は現在に至るまでの(この世界の?)すべての記憶を持っているという。彼との対話の中で、ジェシカは物質に刻まれた記憶を知り、その再生を体験する。二人目のエルナンは、自分はハードディスクのようなものであり、ジェシカはその受信装置、アンテナであると述べる。頭の中で鳴り響く「音」は遠い過去からの響きであったらしい。

それから映画は、いつとも知れないジャングルでのある「物体」の飛翔を映し、主人公の消失と静寂の風景、少しずつ大きくなっていく雨音を伴って幕を閉じる。

主人公の身の回りで起きた些細で個人的な出来事が、探求を進めるうちに世界の秘密へと繋がる筋立てはとてもSF的だ。

主人公のジェシカ・ホランドという名前が、ジャック・ターナー監督の『私はゾンビと歩いた!』へのオマージュであることはアピチャッポンも公言しているところだ。『私はゾンビと歩いた!』に登場するジェシカ・ホランドはゾンビ(いわゆる「動く死体」ではなく、ブードゥーの秘術で操られる者)であり、同様に『メモリア』のジェシカ・ホランドも意思や感情の希薄な、ゾンビ的な登場人物として設定されている。

だが、ジェシカの受動的な態度には、ゾンビとはまた別のものを連想させられた。この映画はジェシカが歩き、行く先々でさまざまなものを見たり聴いたりすることの繰り返しで話が進んでいく。意思が希薄というより、異邦人として訪れたこの世界に戸惑っているという印象を受ける。このことはタイを離れて初めて海外で映画を撮ることになった作り手の立場を反映しているようにも思える。

その姿は、初めて訪れた博物館、あるいは美術館を見て回る見学者のそれではないか。じっさい、前半部分では工事現場から出土した古代の人骨や、美術館で展示されている絵画やオブジェと接しているし、それ以外の場面でも知人の教授と菌類の詩学について会話を交わしたり、大学の図書館で調べ物をしたり、その構内で演奏を見物したりと、アカデミックな空間で行動が終始している。

前半が大学や都市の内部であったのに対して後半はその外へ出かけていく。ここで印象に残るのは採掘現場へと車を走らせるジェシカを写した一連のショットである。銃を構えた軍人たちが検問をしている様子は、前半のにぎやかな都市の描写との対比もあって驚きを与える。検問を通過してからカメラは運転するジェシカの横顔を捉え続けている。運転する人物を映したショットはあらゆる映画で無数に存在する。だが、私はこの作品のこの場面に違和感というか、面白さのようなものを感じた。それはスピード感で、実際に走っている自動車はそれほどの速度は出ていないのだろうけれど、運転手を横から映し車外の景色がサイドウィンドウに限定されると、時おりの車体の揺れもあってか、心地よい不安感というのか、実際以上の速度、どこまでも加速していくかのような錯覚を味わった。それはまあ見当違いな印象なのだろうけれど、この運転するジェシカを映したショットは、前半から後半へ、都市から森へ、一つの次元から別の次元への橋渡しを行っている。

いつのことか忘れたが、昔ある博物館の展示を訪れた時、イヤホンと小さな装置を配られた記憶がある。館内の特定の展示品に近づくとイヤホンからその展示の説明音声が流れる仕掛けだった気がする。まるでその空間に、目に見えない音のデータが刻まれていて自分がその再生装置になったような感覚を覚えた。アピチャッポンの作品では過去・現在・未来・夢といったいくつものレイヤーの重なりとして世界が描かれている(※1)。時間の堆積した地層であり、今作のように発掘現場が登場するのも、過去が刻まれた地質学的な作品世界を表している。記憶は人の脳内だけでなく、鉱物や植物、そして身体にも刻まれている。ジェシカはアンテナとして、それら刻まれた記憶の再生を体験する。二人目のエルナンはお気に入りの石をジェシカに見せた。その石には二人の男ともう一人の男の争いの物語が記憶されているという。エルナンの部屋でジェシカは、街が襲撃を受け、ベッドの下に隠れた幼い頃の記憶を思い出す。しかしそれは彼女自身の記憶ではないと言われる。その場に刻まれた声や音を再生したのだ。エルナンの手に触れたジェシカの耳にさまざまな出来事の声と音が聞こえてくる。世界、というか土や木や生き物を含めた土地には記憶が刻まれている。その記憶は音である。映画の冒頭、バスのタイヤがパンクする音(ジェシカの頭内の爆発音に似た音)に驚いて地面に伏せた男性の姿は、かつてこの場所で起きたテロ事件の反響である(※2)。エルナンの持つ記憶はジェシカが彼の手に触れることで再生される。脳内の記憶というより、石や木のように身体そのものに刻まれた音の響きを聴いているようだ。

この映画において記憶は音として再生される。重要なのはその音が常に映像を喚起させるということだ。抽象的な音楽ではなく、ある時ある場所の光景を記録した音。かつていた人々の体験した暴力、恐怖、木々のざわめき、遠い世界からの来訪者。劇伴のないこの映画でしかし音は常に鳴り続けている。暗転してエンドロールに入ってから雨音は強まっていく。音は目に見えないが、音の鳴っている光景を聴く者に想像させ、スクリーンに映し出された映像に存在しないもう一つの映像を重ね合わせる。世界は多層化されている。

そしてもう一つ、記憶として刻まれたそれらの音は、今ここ、で生じた音ではない。ジェシカの頭の中で鳴る爆発音も遠い昔のものだとされる。興味深いのは、この爆発音の作品における位置である。ジェシカと我々観客にしか聞こえないこの音は、作品世界に存在していながら、その内部からはみ出している。さらには、その音が今も聞こえるとジェシカの口から語られながらも観客にはそれが聞こえない場面もある。作中人物にしか聞こえない音という存在によって、作品の内と外のはざまに浮かぶ別の次元を生み出している。

別の時間、別の場所の記憶が物質に刻まれ、世界に響き続けている。音は響く、浸透する。だから時空の壁を越え伝わってくる。今ここではない場所の音と光景を刻み付けられたもの、映画のフィルムもまたそういうものではないだろうか。


※1ユリイカ2022年3月p159
※2同 p84

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