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アートで対話する

デジタルファシリテーターの田原真人さんが中心となっているワークショップに参加した。

約3か月間、毎週土曜日に全10回開催されたワークショップであった。
主にファシリテーターたちが集まる会でめちゃくちゃ楽しかったし、深い学びになった。

今回で最終回だったので、さみしい気持ちはありつつ、たのしく過ごす事ができた。

最終回である10回目のお題は参加者の発案で決めることができた。ぼくは発案した。

お題は、「アートで対話する」であった。
お題の動機は、岡本太郎展だ。彼の作品を観て語り合いたいと思った。

お題になにかが触れたメンバーが集まってくれた。参加者は「アートで対話したかった」面々であった。

その内の一人は、自分で創った作品を披露してくれた。せっかくだったので、彼女の作品を観て、何を感じ、何が引き出されるのかを語り合った。

思っていたより、たのしかった。

鑑賞したメンバーの視点、引きだされる感情や想い、作者の意図や想いをストレートに聴くことができるからだ。

この場には、正解、不正解はなかった。ただ、感じたまま、観たままに語り合うことが心地よかった。

この場は神回だと思った。しかし、指示されていたレコーディングすることを忘れていた。もったいないことをしたと感じたが、あの瞬間はあのメンバーだけで共有したいとも思った。それだけたのしい時間を過ごすことができたと思うのだ。

これもアートがなせる業なのかどうかはわからない。
けれども、アートの楽しみ方は、鑑賞で留まるのではなく、そのあとの対話が重要なのではないか、そう感じた。

アートを通して、対話した面子の人となりや未来への発想、過去の総括、様々な大小織り交ぜた課題の解消など、アートは「じっぱひとからげ」にしてしまう存在なのではないかと思った。

落語の同じ感覚がある。正解不正解などない、あるのは人間の「やらかし」だけである。その「やらかし」は外からみると「笑い」になるのである。落語も「じっぱひとからげ」な存在だ。

あぁ、またアートで語り合いたい!と思い、後ろ髪を引かれ最後の回のZOOMを退出した。

梵字みたい



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