本当の自分って「どの自分」?
本当の自分や嘘の自分、自分が一杯居るとどの自分を「自分」と見做すか迷ってしまいます。
それで「エゴの自分」を自分と思ったり、物質としての「肉体を自分」と錯覚する人も出て来ます。
デカルトは、「我思う故に我有り」と言ったけど「その我ってどの我」とは問わなかった。
私って精神なの、それとも物質なの?自我なの、それとも顕在意識なの?人が脳梗塞で倒れる時、ヤラれるのは大抵左脳です。つまり人間は言語的思考しか使っていないみたい。そうすると「自分」とはその辺りの住人なのかもしれません。
それではハートは何処に行ったの?今のところお留守みたいです。
許せない自分、無気力な自分、消え入りたい自分、生きる気力ゼロの自分に、ガソリン満タンの自分、無数の色んな自分が並行現実には住んでいて、今日はどの自分をダウンロードしようかなと考え中です。
自分とは、実は「意識と言う非物質的な存在」です。そしてこの意識は、信念、感情、思考と言う三つの形態を採りながら「自分を展開」させて行きます。
宇宙に意識が有って、その意識が細胞分裂よろしく「意識分裂」したその一片の唯一無二の個性的な意識が貴方です。それで細胞分裂と言うのは分裂して個々バラバラになってしまった訳ではなくて、細胞同士は依然としてひしめき合いくっついています。それと同様に一つだった宇宙意識は、無数個に分裂しながらも「依然として一つのまま」です。それでこれを「一即多」と表現したりします。分かれているようで実は繋がっている訳です。
つまり意識は繋がったまま「自己展開」していきます。即ち「次元展開しながら」フラクタル構造を形成して行きます。人間の肉体身体も7つのチャクラに「自分をエネルギー展開」させて創り上げました。だから本当は繋がっていて「一つ」なのに、チャクラとしては「7つに」分かれています。
そう言う訳で人間は、自分を五次元の意識と三次元の意識とに「分離」させた、と言う「幻想と錯覚」でもって、この三次元的人生を営んでいます。でも本当は一つに繋がっているので、三次元の自分も五次元の自分も「同じ自分」なんです。だけど二つの自分に分離した体(てい)で生きているので、二つを「統合」してやらない限り、分離したまま一生を終えてしまいます。
自分と言う意識は、自分の肉体人体の中を自由に意識出来ます。この辺が胃で、この辺が腸と言った具合に意識出来ます。この時自分と言う意識は、体内を探索するサーチライトに喩えられます。だから本当は7つのチャクラの中を自在に往来してもいいんです。そして考えようによってはチャクラの一つ一つを「自分」と見做すことも出来ます。或いは7つの意識状態と考えても構いません。「頭で考える」とか「子宮で考える」と言ったりしますね。と言う事は「ハートで考える」事も出来るのです。そして性欲の自分や食欲の自分も居ますね。
こうして色んな自分を手繰り寄せて一つに統合していくと、自分の頭上に「さらなる自分」つまり「ハイヤーセルフ」が居て、さらにその先に「魂」が居て、さらにその上方には「集合意識としての自分」も居ます。これら全てが実は全部「自分」なのです。今ここに居る人間としての自分は、「自分の視点の位置」を12次元から3次元にただ単にスライドさせて降りて来たに過ぎません。
意識は、自分を分離したり統合したりしながら、「自己を展開」し、感情は感情で「喜怒哀楽と言う形で」自分を展開させます。
例えば、ある人が「私、不安なんです。」と自分の感情を不安として展開させた時、その人はその「不安」と言う感情を認識する事によって「本当の自分」との距離を把握出来ます。今自分が何処に居るかが掴めます。つまりまだ自分は「安心な場所」たる天国には移動していないのだと気づく事が出来ます。
こうして「今ここの自分」が「さらなる自分」を次々に統合して行ったら、最後には宇宙意識にたどり着くのは間違い有りません。
でも逆方向から見ていくと、宇宙の自己展開した形が「今ここの私」なんです。だから自分と宇宙とを合致させなくちゃでは無くて、最初から自分は「宇宙の自己展開した一形態」だったのです。向こうから出向いて貰えば実に簡単なのです。
「私は本当の自分である宇宙を愛さなくては」では無くて、宇宙は最初から今ここに居る私を愛してくれています。と言うか、此処に居るこの私は実は「宇宙自身」なので、愛さないでいる事自体変です。つまりたった一つの宇宙が、「単に自分の視点をずらしていったら」、人間として肉体を持った自分を演じてるに過ぎないのです。
縄文人としての自分や未来生としての自分、地球人としての自分や宇宙人としての自分、並行現実にいる別バージョンの自分、どの自分も自分であるし、また赤の他人として別人格の自分とも言えます。
幾つもいる自分を上手く統合出来ないと、精神分裂や多重人格になります。
意識だって放っておくと顕在意識と潜在意識に分離したりします。だから常に「 I am whole. 私は統合された全体です。」と確認しながら生きていく必要があるのです。
ハイヤーセルフと分離した状態の自分をエゴの自分とか「左脳の自分」或いは「三次元の生存競争の自分」と言ったりします。このエゴの自分が「他人軸の自分」になって人生をしんどくしています。
他人軸の自分は「本音でなく建て前で」生きがちです。それで疲れ果ててしまいます。
だから「本当の自分」とは「本音の自分」つまり「自分軸の自分」、「ハイヤーセルフと繋がった自分」と言えそうです。
宇宙もしくは神が、単に「光」だとしたら、この宇宙から今ここにいる自分に向かって光はただ通過しているだけなのです。12次元から3次元へと光は通過して行っただけです。つまりその際自分と言うのは「光の通り道」であり、意識とは「光を向ける方向」に過ぎません。意識の通り道に「豊かさや貧しさやお金と言ったフィルター」を挟んで光を通過させたのです。そして「プリズム」で光を七色に分けてみたり、「鏡」を使って心臓から脳へと経由させているだけの話です。神を崇めるとは、単に「光」を崇めていたのです。だって宇宙も自分も単なる光なのです。そして自分とは単に「光の通り道」です。そう豊かさやお金の単なる「循環経路」なのです。この自分と言う「光の通り道」に豊かさを通過させたり貧しさを通過させたりしているだけです。脳の神経回路に「私は豊か」と微弱な電気信号を走らせただけなのです。存在とか万物は、一見複雑多岐に見えるけど、単に光の通り道に過ぎません。つまり「エネルギーの流れ」即ち「エネルギー循環の経路」に過ぎないのです。血管も神経回路も循環経路なのです。思考が現実化する、それも光の通過して行く経路なのです。
まとめ。自分とは「光の通り道」或いは「エネルギーの循環経路」で、この通り道を観念や信念や感情やお金が、光やエネルギーや電気信号として通り過ぎて行きます。詰まって通らなくなったら心筋梗塞や脳梗塞、エネルギーが枯渇して届かなくなったら絶望とか鬱(うつ)と言う事になります。つまり「本当の自分」から一番遠ざかった状態が、エネルギーが枯渇して無力や無気力な状態であり、「本当の自分」に帰って行くと、「希望や勇気」が自然と湧いて来ます。だから本当に疲れ果てた時は、じっくり休養すれば良い。
自分と言う意識は、単に光の向かう「方向を変えているだけ」です。つまりネガティブにするかポジティブにするか、喜怒哀楽のどれにするか、貧しさにするか豊かさにするか、絶望にするか希望にするかを、その都度気まぐれにチョイスしているだけの話です。