植物の生命力とは何か?
鉢植えのキンカンの枝先をシロウト剪定(せんてい)したら、わずか20日足らずで若葉が芽吹いて来た。剪定とは何か未だに解らないが、例えて言えば、「散髪」なのだろう。えーっ、枝をチョキンと切られたら「痛いよー」と喚(わめ)くんじゃないのと心配したが、考えて観れば、植物には「脳も神経も」無いから痛くないのである。いや本当は痛いのかも知れないが、現代の自然科学では、生命の何たるかは一切不明で未知数である。だから人が髪を散髪されて「痛いよやめてくれ」と言わないように、植物の剪定も痛くない体(てい)で実施されている。もしも「痛いから止めて」と言う声が、私の耳に聴こえたら、その時剪定は中止するとしよう。また植物には、「間引き」が一般的に行われている。「人工的自然淘汰」であり、人工的生存競争と見做(みな)してもいいだろう。生物界に果たして生存競争は必要なのか?残念ながら、単に生物学者のダーウィンに、生物界全般のモラルを問うだけの知性は備わっていない。獅子が我が子を谷底に突き落とすのは、残酷に見えて実は形を変えた我が子の愛し方とも言える。言い換えると、植物は、人間が人為的に間引かなくても、自然に葉っぱが虫に食われたり、日が当たらなくて枯れたりして「自然に間引かれて」いくのである。即ち、適者生存は生物界に必要なのかも知れないし、ひょっとしたら人類の人口削減計画もあながち間違ってないのかもしれない。人口削減計画イコール悪という短絡的感情的反発は愚かしいのかもしれない。この哲学的難題に現在の思想や宗教は答えないまま惰眠をむさぼっている。精子は卵子にたどり着く為に、苛酷な生存競争をしている。その事実を忘れて「万人平等」とわめくのは思慮が浅すぎる。「知性無き者は去れ」、それは生命現象の崇高な営みなのかもしれない。例えば、邪悪な者は天に住めない。それは厳しいが、当たり前の道理である。悪魔や閻魔大王は、可哀相だが天には住めない。だが心を浄化したならば、その時瞬時に其処は天となる。宇宙は、呆気ないほど簡単な理屈で出来ている。「いのち」とは、祈りである。万物を救えない人間に、万人平等を叫ぶ資格はない。だから人類はその科学的知性の進化に合わせて、自らの「生命観」を形成していくしかない。剪定と言う「死と復活」的な行為は、卵子にたどり着く精子同様、適者生存と言う厳しい現実の中で、「霊魂の選別」も粛々と遂行していくのだろう。