知らなきゃハドソン~札幌に一大ゲームメーカーがあった時代~(4)ファミコンへの参入
※2019年11月3日に書いた記事に
加筆修正をしたものです。
前回の記事では札幌にハドソンのような
ゲームメーカーが生まれた、
その背景について書きました。
‘78年からパソコンのゲームを
手掛けるようになったハドソンでしたが、
当時はパソコン自体が一般に
普及している時代でもありません。
ましてやハドソンが携わっていたのが、
シャープのパソコンというのもあって、
メジャーだった NEC の PC-8000シリーズには
ソフトの供給をしていませんでした。
よって、ハドソンを知るのはごく限られた
一部のパソコンユーザーだったのです。
そんなハドソンの転機となったのは
‘83年に任天堂からファミコンが
発売されたことでした。
シャープのパソコンに関わっていたハドソン、
ゲーム&ウオッチに
シャープの液晶を使っていた任天堂、
そんな繋がりからシャープの仲介を受けて
ハドソンは任天堂と結びつきます。
任天堂、シャープ、ハドソンの3社共同で
ファミコン独自のベーシック言語を
手掛けたのです。
‘84年7月にファミコン用ソフト
『ナッツ&ミルク』を発売したのを皮切りに
パソコンからファミコンのソフトメーカーへと
活動をシフトしていくことになります。
ちなみに『ナッツ&ミルク』は、
任天堂以外のメーカーから発売された
(サードパーティーという)
はじめてのソフトでした。
同年の9月にはナムコがアーケードの人気作
『ギャラクシアン』を発売します。
こうして、ファミコン初期のソフトのラインナップは
パソコンゲームのノウハウを生かしたハドソン、
アーケードの雄・ナムコの2社の参入によって、
より盤石なものになっていきます。
ちなみに‘84年にファミコンへ参入したのは、
ハドソン、ナムコの2社のみでした。
‘85年以降には参入メーカーが一気に増えますが、
年間に発売できるソフトの本数には
制限がありました。
これは任天堂が他社メーカーの
ソフトの乱発を防ぐことによって、
ソフトの低品質化を防止する意味が
あったそうです。
一説にはアメリカのアタリショックを
意識していたと言われています。
(アタリショック:‘83~’85年/
ソフトの粗製乱造がユーザー不信を招き、
アメリカの家庭用ゲーム機市場が崩壊した)
そんな中、ハドソン、ナムコだけは
特別に優遇されており、
他のメーカーよりも多くソフトを
発売することができました。
ハドソンとナムコは任天堂からの
信頼が厚かったということですね。
【参考文献】
ハドソン公式HP https://web.archive.org/web/20001213002800/http://www.hudson.co.jp/index.html
ITmedia ビジネスオンライン「“高橋名人”という社会現象」 https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0903/12/news087.html
『別冊宝島セレクション 僕たちの好きなTVゲーム 80年代懐かしゲーム編』‘05/宝島社