見出し画像

これからも悲しみがなくなることはない。それでも生きていく

大切な人の死について、言葉にする。忘れること、薄まっていくことへ抵抗したい。だから記録する。この記録は誰かに見せなくてもいいものだ。でもここにここに記すのは、自分のあいまいで揺らいでいる気持ちをどこかの誰かに知って欲しい、語りたいと思っているからだ。

この記事は私の体験にもとづき、大切な人の自死に関することが書かれています。人によっては、うっとなってしまったり、強いストレスを感じてしまうかもしれません。無理せず自らが読みたいと思ったタイミングで出会ってください。
【支援・相談窓口/参照リンク】
・ 全国自死遺族総合支援センター
・ 自殺対策支援センターライフ
・ 電話相談等を行っている団体一覧
・ SNS相談等を行っている団体一覧 
【グリーフに関して、これまで私が読んだ本】
・『悲しみを生きる力に 被害者遺族からあなたへ』(岩波ジュニア新書)入江杏 著
・『なくしたものとつながる生き方』(サンマーク出版)尾角光美 著
・『死別の悲しみに向き合う グリーフケアとは何か』(講談社現代新書)坂口幸弘 著 
・『悲しみの秘儀』(ナナクロ社)若松英輔 著

約1年前に祖父が自ら命を断った。そこからしばらくしてコラムを書いた。

それから5ヶ月が経った。今、あの日の出来事について自分がどう思っているのか、わからない。

うっと胸が詰まり呼吸が浅くなることもあれば、暑かったり運動不足だったりで寝つきが悪いときもあれば、身内だけで実施した挙式・披露宴を「めちゃめちゃいい式だった」と振り返ることもあれば、突然思い立って友人と「サウナしきじ」を訪れ、天然水水風呂のまろやかさに感動して、ホームサウナを探す意欲が高まったこともあれば、ツマと今週のジャンプで「轟くんがあつい」と騒ぐこともあった。おじいちゃんのことについて語りたいな、でも語れないなって思うこともあった。さみしさが腹の底から浮かんでくることもあった。いろんな気持ちがあった。

それでいいと思っている。痛みも悲しみも苦しみも楽しさも喜びもそれらが混ざり合う、あるいは、それらに当てはめて考えるとしっくりこないあいまいな感覚・感情もすべて、そのまま感じていればいい。他の人と比較せずに、私のペースで付き合っていけばいい。

家族に不幸があった時、1年は喪に服す期間として、結婚式など祝いの席、年賀の挨拶など控える場合が多い。もともと挙式・披露宴を予定していた私は悩みながらも実施することにした。おじいちゃんの出来事があっただけではなく、もともと式への偏見があったり、新型コロナウイルス感染拡大の状況などあったり、様々な要因が重なって悩んだ。けれどやってよかった。

おじいちゃんに結婚することを伝えたとき「結婚式をやるときは、おじいちゃんが尺八を演奏するから」と言っていた。以降、私に会うときは高確率でそれを伝えてきた。こちらとしては、「1曲と言いつつ、演奏長くなりそうだから別の機会でいいかな」と心の中で思いながら、「式の内容とか決まってお願いする場合は伝えるね」と受け流していた。

「なんで結婚式があるのは決まってたのに自ら命を断ってしまったんだろう」「おじいちゃんにも見届けてほしかったな」「あ、これしばらく辛いやつだ」そんなことも感じつつ式の準備を進めた。

本番当日、乾杯の挨拶を担当した父は、おそらく、おじいちゃんが父に伝えていたことについて話してくれた。中座ではおじいちゃんが演奏した尺八の音源を流しながらおばあちゃんとおじいちゃんの遺影を持って一緒に歩いた。エンディングムービーの最後にはおじいちゃんのお墓に掘ってある「自分が自分であることを喜ぶ」という言葉をもとに「自分が自分であることを喜べるように共に生きましょう」というメッセージを入れた。

これらは、あの日の出来事を感動的な物語として、共有したいからやったわけではない。あの日の出来事から受け取ったもの、受け取ってしまったものに立ち止まり、その意味を考えたかった。今の自分にとっての意味を形にして、その場にいる大切な人たちに共有したかった。意味づけして自分の中で固定化するのではなく、意味づけという行為を通して、出会い直したかった。そして、それぞれが「これからなにを大切にして生きていこうか」「自分が自分であることを喜べるようにどうしていこうか」「このつながりをどう捉えていこうか」ということに思いを馳せる機会になってほしいと願っていた。実際参列してくれた方がそういう機会になったかどうかはわからない。

でもやってよかったと思えている。あの日から受け取ったもの、受け取ってしまったものは、悲しみや自責の念、罪悪感、怒りだけではないんだと思えた。おじいちゃんから受け取ったものがたくさんある。

自分が自分であることを喜ぶ
世を去るその日まで独自の工夫を重ねる
ただ一緒にいる時間を味わう
喪失から生じる感情・感覚を置き去りにしない

いやー、でもやっぱりさみしい、痛い、苦しい、「あと一週間早くおじいちゃんに会いに行っていれば」「弟子入りしていた尺八の稽古を続けていれば」って思ってしまう。こういうことを語ると、大切な人に気を遣わせてしまうかもって思ってしまう。

1年経つけれど、これからも悲しみがなくなることはない。揺れ続けながら、意味づけして出会い直しながら、言葉にできないものの痕跡をなんとか残しながら、生きていく。

今日はおばあちゃんたちとお墓参りに行ってお寿司を食べた。よなよなエールのビールを呑んだ。「いい式だったね」「この1年がんばったね」って話もしたし、おすすめの本やマンガの話もした。涙を流している人もいれば、家族の前で涙を見せるのは気恥ずかしいと思ってしまった人もいたし、スマホを触っている人もいた。ツマがおじいちゃんに日本酒を買ってきてくれていたのでお供えした。きっとそのまま置いておくとおじいちゃんは飲み過ぎるだろうから、少しの時間だけ置いて、帰る時に自分の家に持って帰ってきた。あとで呑む。

2020年9月12日 木村和博

こんにちは。サポートでいただいたおかねは、取材費にまわします。書くことばでお返しできるようにします。