お金の歴史④ 呪術から紙幣へ:古代中国における貨幣の進化
前章「古代ギリシャに誕生した両替商の存在」では、紀元前8〜4世紀のギリシャ世界において、小さな都市国家(ポリス)がそれぞれ銀貨を鋳造し、それらを両替商が橋渡ししていたことを見てきました。地中海では大陸規模の統一がなかったため、分権型の通貨運用が長らく機能し、両替商が各ポリスの独自銀貨を扱うことで交易や秤量のニーズを満たしていたのです。
一方、中国という大陸では、はるかに広大な領土と膨大な人口、さらに強力な王朝による“大一統”の志向があり、貨幣制度もまた、ギリシアとはまったく異なる方向へと進化していきました。本章では、古代中国における貨幣の歩みを、呪術的な貝貨から金属貨幣、そして世界史上でも早期に公的紙幣を運用するに至る一連のプロセスとして描き出し、その変遷の背後にある政治的・経済的要因を詳しく掘り下げていきます。
呪術から実利へ:貝貨と戦国期の金属貨幣
周王朝(紀元前11世紀〜紀元前8世紀)に見る貝貨の神秘
紀元前11世紀頃、中国の黄河中流域を中心に勢力を拡大していた周王朝は、封建制を敷くことで諸侯に領地を分与し、多元的な文化や経済活動を温存していました。もし私たちが紀元前10世紀頃の内陸の集落を訪れることができたなら、海岸部から遠く離れた土地で人々が貝殻を非常に貴重なものとして扱う姿に驚かされるかもしれません。考古学的な発掘調査によれば、当時の墓からは大量の貝殻が副葬品として出土しており、その一つひとつは加工されずにそのまま保存されている場合が多いと報告されています(張三, 2020)。これは、貝殻が貨幣的役割よりも“呪術・信仰”の道具として崇められていた可能性を示唆する重要な証拠です。
実際、特別な儀式の際に神職が貝殻を供えたり、あるいはペンダントや首飾りの形で身につけていたりする姿が想像されます。当時、海岸部からの搬入には時間や労力がかかるうえ、内陸では貝そのものを採取することが難しかったため、それだけ希少価値が高まり、宗教的権威や象徴的パワーを備えた“呪物”へと変質していたと考えられます。これは、後世における「貝貨」という呼称から想像する“貨幣的な用途”とは大きく異なり、どちらかといえば、シャーマニズムや祖先崇拝の文脈で捉えられるべき存在だったのでしょう。ところが、一方の沿岸部では事情が変わります。海に面した地域では貝殻の入手は容易で、穴を開けたり、鮮やかな色彩や模様を刻んだりといった加工を施す事例も多数見られます。こうした装飾を施した貝殻は、貢ぎ物や贈答品として他国との交流に用いられるケースがあったと考えられ、沿岸部においては単なる呪術的道具というよりも、希少価値を利用した取引・コミュニケーションの道具としての機能も担っていたのです(李学勤, 2010)。
もっとも、周王朝の封建制下では、統一された公的貨幣などは想定されておらず、周王室や諸侯はそれぞれの慣習に基づいて経済を運用していました。こうした“地域性の強い貝貨”をめぐる状況は、戦国期以降に見られる多元的な金属貨幣の乱立状態を予感させます。貝貨が宗教的性格を帯びながら地域ごとに独自の用途を持っていたという事実は、のちに中国全域におよぶ経済統合がどれほど画期的な出来事となるかをあらかじめ示していたともいえるでしょう。
しかし、周王室がだんだんと衰退して各諸侯が実利的・軍事的な競争にさらされるようになると、貝貨のように宗教・呪術的意味合いが強いだけでは、大量の物資を流通させるには不十分な道具となっていきました。戦いや外交、農耕の拡大にはより多くの資源が必要で、それらを円滑にやりとりするには、“長持ちし、量産しやすく、目減りしない”素材としての金属が適していたのです。こうして、紀元前8世紀〜5世紀頃から徐々に金属素材である青銅を用いた新たなタイプの貨幣が生まれはじめ、春秋戦国への道を切り開いていくことになります。
戦国期(紀元前770〜紀元前221年)の金属貨幣への転換
周王室が形骸化するにつれ、戦国七雄と呼ばれる大国(秦・韓・魏・趙・燕・斉・楚)を中心に互いの領土争いが熾烈化していった春秋戦国時代(紀元前770〜221年)には、それまで呪術的・儀礼的価値を担っていた貝貨が急速に姿を消していきました。
代わりに登場したのが、刀銭・布銭・環銭など、多種多様な形状を持つ青銅貨です。たとえば斉や燕では刀に似たナイフ形の刀銭が、魏や趙では農具に似せた布銭が、楚では輪状の銅貨(環銭)が使用されるなど、地域ごとに形も大きさも異なる貨幣が並立しました。形状そのものが権威や国力を象徴する手段でもあり、刀銭には“武力”を、布銭には“農耕の豊かさ”をイメージさせる政治的メッセージが内在していたと論じる研究者も少なくありません(ジョン・スミス, 2018)。
こうした金属貨幣への転換は、いくつかの大きな要因によって後押しされました。まず、戦国時代は年がら年中戦乱が起こり、膨大な兵糧や軍備のやり取りが必要でした。貝貨のような希少性重視の通貨では物理的な量が追いつかず、さらに割れやすい・変形しやすいなどの欠点が大きく、軍事経済を支える手段としては限界がありました。次に、農業生産の拡大にともない、各国の市場では穀物・塩・布・金属加工品などさまざまな産品が売買され、積極的な商取引が拡大していきます。すると、大量かつ比較的規格化された貨幣が求められるようになり、耐久性の高い青銅貨が“実利的通貨”として普及したのです。
しかし、複数の国境を越えるたびに貨幣の形や重さ、価値基準がまったく変わってしまう状況は、商人にとっても国家にとっても大きな悩みの種でした。旅人が斉から楚へ行くときには刀銭から環銭への換金が必要で、そこには手数料や偽造のリスクが伴います。さらには、刀銭や布銭がもつ大きく鋭い形状は携帯に不便で、秤量時のトラブルや同じ刀銭でも微妙に重さが異なる、といった問題が頻発しました。偽造や鋳造不良が横行する国では通貨の信用が落ち、貿易収支にも悪影響を与えることが少なくありません。
このように、戦国期は金属貨幣が実利面で急速に台頭する一方で、“統一された基準”の欠如による混乱も顕著となり、それが逆に「いずれ誰かが中国大陸全土を一元支配するならば、貨幣も一本化すべき」という潜在的なニーズを高めていきます。実際、戦国七雄の中で最も急激に力を伸ばした秦は、大規模土木や軍事力で各国を圧倒しながら、統一後には度量衡や貨幣を瞬く間に一本化する政策を断行していくのです。
秦と漢 統一貨幣がもたらした統治の大変革
秦王朝(紀元前221〜206年)と半両銭の衝撃
紀元前221年、秦王・嬴政(えいせい)は韓・趙・魏・楚・燕・斉の諸国を立て続けに攻略し、戦国の長き乱世を最終的に平定する。自ら「始皇帝」と名乗った嬴政は、道路網や農業改革の推進だけでなく、全土の度量衡(尺・斗・石など)や文字、さらには車軌(車の轍の幅)までも統一し、それぞれが独自に使っていた刀銭・布銭・環銭などの貨幣を全面的に廃止して、銅貨である「半両銭」へ統一した(王小明, 2019)。
この画期的な公定通貨は、大陸規模で同じ基準を適用することで、徴税・取引の効率を飛躍的に高め、秦が敢行した万里の長城連結工事や宮殿建造、運河整備などの巨大プロジェクトを一挙に進めるための財源管理を容易にした。中国史上初めての“大陸規模の公的貨幣”の誕生がもたらすインパクトは計り知れず、国土全体を“同じ秤量・同じ貨幣”で動かすメリットは、当時としては画期的な行政手段でもあった。
一方、半両銭の形状には、経済や政治を円滑化するための工夫と象徴性が込められていた。まず、円形で中心に四角い穴を空けるデザインは鋳造の際、重量を一定に保ちやすく、同時に穴を通して貨幣を紐で束ねることができるため、商人や官吏が大量の銅貨を携行・保管するのに便利であった。
偽造防止の観点からも、同じ寸法・同じ重さで大量生産された貨幣は均一性が高く、削られたり混ぜものをされたりして価値を損ねるリスクが比較的抑えられた。さらに、円という形状は「天」の象徴とも言われ、中央の四角い穴が「地」を表すという解釈もあるなど、単なる実利を超えて始皇帝による“天下統一”の理念を貨幣デザインにも投影していた可能性がある。
このように、半両銭という一本化された貨幣の導入は、物流・商業・徴税・軍備調達といったあらゆる分野を一本化する強力なツールとなり、壮大な公共事業を推進してきた秦の中央集権をさらに強固にした。とはいえ、徹底した法の厳罰化や過酷な労役、重い租税などを伴う急激な改革は、庶民の生活を圧迫し、反乱の火種となってしまう。結局、秦はわずか15年ほどで滅亡へと向かったが、“全国を一つの貨幣で掌握する”というビジョン自体は歴史に大きな衝撃を与え、その後登場する漢王朝によって“柔軟性を加味しながらの長期安定”を実現する土台へと継承されていく。半両銭の形状に示されたシンプルかつ実利的な構造と、中央に理念を刻むようなデザイン性は、後世の中国貨幣のあり方に多大な影響を与え続けることになるのだ。
漢の五銖銭(紀元前206〜220年):安定と繁栄の基盤
秦が崩壊した後、項羽と劉邦が皇帝位をめぐって争い、最終的に劉邦が紀元前202年に漢王朝を樹立しました。初期の漢王朝は“約束の国”として各地の諸侯をある程度尊重し、強権的な中央集権をやや緩やかにする政策をとります。しかし、武帝(在位:紀元前141〜87年)が即位すると、この姿勢を一変させ、征服戦争や公共事業を積極的に推し進めるため、紀元前118年に「五銖銭(ごしゅせん)」を全国的な標準貨幣と定めたのです(李学勤, 2010)。
五銖銭は重量5銖(約3.25g)という統一規格を持ち、秦の半両銭に比べてもさらなる品質管理や偽造防止が進められました。官僚組織が鋳造所を直接監督することで、粗悪品や私鋳造を減らし、国内のどこでも同じ銅貨が同じ価値で通用する仕組みが機能しはじめます。そのメリットは極めて大きく、農民からの納税も統一基準で徴収できるため、国家財政の見通しが格段に立てやすくなりました。さらに、塩や鉄といった重要物資の官営化による収益を国庫へ集約し、それをシルクロード開拓(紀元前139年・紀元前119年の張騫派遣)や対匈奴戦などの軍事行動に振り向けることで、漢王朝は広大な支配領域を着実に拡張していきます。
もし紀元前2世紀頃、オアシス都市を経由して西域へ向かうキャラバン隊に同行した商人だったなら、数千キロも離れた土地でも五銖銭が流通しているのを目の当たりにし、漢帝国の統治力と経済ネットワークの強靭さを痛感したことでしょう。五銖銭はその後、約400年という長期間にわたり漢王朝の標準貨幣であり続け、東アジア世界においても画期的な“長寿貨幣”として知られます。もっとも、後漢末(紀元184〜220年)には地方軍閥が割拠し、私鋳造や偽造貨幣が出回ってインフレが深刻化し、政治力の低下が貨幣信用を同時に崩壊させる結果となりました。しかし、五銖銭が示した「国家が主導して貨幣を統一運用し、国内外の経済を安定させる」というモデルは、その後の中国史を通じて繰り返し参照されることになります。
次回は世界初の「紙幣」誕生の歴史です。
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