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「私はどうせ人に受け入れられない」というビリーフを躍る瞑想で捨てられた話
多くの「愛着障害」の人や
多くの「いじめ被害」の人が思うこと。
「どうせ、自分は受け入れられない」
という思考のクセ。
「事実」というより「思考のクセ」。
事実だと思い込んでいる人も
まだ多いかもしれないけれど、
それは、思考のクセなの。
新しい人との出会いのとき、
新しい職場やコミュニティに入るとき、
前述のような思考のクセがある人は、
どうしても「どうせ」のネガティブが抜けない。
頭ではわかっている。
「どうせ」と思うことは無意味だということ。
本当はやってみなきゃわからないと気づいてる。
今度はうまくいくかもしれないという淡い期待も。
だけど、
心の奥底には「でも、きっとまた、うまくいかない」ことを
まるで待ち構えているかのような異常な緊張感。
そして、
人のSNS投稿を見て、LINEやメールを見て
ほんのり感じ取る「相手からの拒否」で
すぐに意気消沈、もしくは、立腹してしまうのだ
(私の場合は前者「凹む」のほう)。
「ほら、あなたも私を受け入れられないのね」
「どうせお前も、俺を嫌いなんだろう」
という自動思考が始まる。
これ、もう嫌なんだよね。
やめたほうがいいんだよね。
頭ではわかっている。
それは、心理学の書籍などを見て
「理解」をしているから。
だけど、「理解」では
心は救われない。
むしろ、この思いをなんとかして
「手放さなければ」という
新たな執着が生まれる。
「そんな思いは手放したほうがいい」
「どうして手放せないんだろう」
と、今度は自分を責める。
それはほとんど一生続くほどの
「呪いの言葉」。
「どうせうまくいかないのだ」
「どうせ嫌われるのだ」と。
パートナーが手本を示してくれていても、それでもなお脱げない「好かれたい」「嫌われるのが怖い」という思い
私も、実は、その一人。
たくさんの人生の課題を乗り越えて
過去のいじめも明るく語れるぐらいに
乗り越えて克服してきているけれど
それでも「受け入れられない感」は
心の奥底にひっそりと抱えてきた。
どんな私であっても
心に素直に優しく生きている限り
決して私への愛情が変わることのない
最強のパートナーと出会えた今でさえ
この「イラショナルビリーフ」を脱ぐことは
非常に難しかった。
そんな最強のパートナーである
夫・てらしーは、というと
「だれかにどう思われるかなんて考えたことない」
と言い切る。まるで、お手本のように。
そんなパートナーといても
「いやいや、そうは言っても……」と
私は心のどこかで
「放っておいても嫌われるのだから
なるべく好感度を持ってもらえるような
悔いのない言動を……」と思ってきた。
ところがどっこい。
それは、突然、脱げ落ちたのだ。
踊りながら私は一枚の固定観念を脱ぎ捨てた
昨日、「5リズム」という
躍る瞑想と言われる、
コンシャスダンスのワークショップに参加した。
そこで変化が起きたのだ。
この「5リズム」との関わりについて少し解説。
2017年10月7日に、私は初めて
神戸での5リズムのワークショップに参加した。
その昔、2007年に神戸で学んでいた
ポラリティセラピーの概念に
アーユルヴェーダの概念が入っていたので
5つのエレメントのリズムで躍る
5リズムに、すぐに魅力を感じたのだ。
そもそも「ポラリティセラピー」の創始者
ランドルフ・ストーン博士が在籍していたのが
アメリカのエサレン研究所。
5リズムもそのエサレンから生まれているので
いわば、ルーツが同じなんですよね。
ということで、昨日の話に戻ると
昨日は、「5リズム スエット」という
自主練の会だったのだけれど
講師ではなくて、その見習いでもある
スペースホルダーの資格を持つさくらちゃんが
高槻で開催しているワークショップに参加。
ここで、久しぶりにものすごく
ググッと内なる自分に入りこめた。
そこで、突然、気づいたのだ!
「好かれなくたっていいじゃん!」と。
好かれようとするからしんどいんだ!
私を通して夫と仲良くなったのに
夫婦で同時に仲良くなったのに
夫としか交流しない人が何人もいること(笑)。
一生懸命、だれかをサポートしたり
頼られると期待に応えようとしたりするが
そのわりに
受け入れてもらえない感を味わうこと。
認めてもらえない感を感じること。
複数人でなかよくなったと思っていたけど
どうも仲間に入れなかったり
疎外感を感じたり
なんらかの違和感を感じること。
サポートした相手にいきなり嫌われる。
私の時間と労力を無下にされる。
これも本当に悲しい。
でも、この繰り返しをやめたかった。
もう卒業したかった。
だいたい「話を聞いてほしい」という人たちに限って、私の記事を全然読んでくれていない。
私は、noteなどにすでに書いていることを
再度、時間をさいて口頭で伝えることになる。
ゆえに、正直、きつい。
丁寧に対応しては
キャパオーバーになっても距離を取りづらくて
どう離れていいのかがわからなくなる。
「私に話を聞いてもらいたいのなら
まず、私の書いている記事を先に読んでくれ」
と思ってしまう。
相変わらずよく相談を受ける。
たまにならいいが、続くと正直しんどい。
それでも、
「その人たちに好かれる必要はあるの?」
と昨日は思った。
私の貴重な時間を割いて
相手のために言葉を慎重に選び、
懇切丁寧に優しく気遣い、
対応する「義務」があるの?と。
ないやん。ないよね。
結果、無下にされるならなおさらのこと。
そう思えた。そして、私は、思った。
「好かれたい」と思う気持ちを捨てよう!と。
いや、もう、嫌いで結構だよ!と。
なかよくなりたいあの人の「閉じた表情」も
頼ってきてくれたかわいい人の「全否定」も。
べつにかまわない。
そして、どんなグループにも、コミュニティにも
「スナフキンでいる」と決めた自分を
全面的に肯定していこう!と。
私たちは頭で理解するよりも、腑に落ちることで「昇華」できる
踊っている間に、
「好かれたい気持ち」をどんどん脱いだ。
もう、踊りの中に「脱ぎ取る仕草」も入れまくった。
「いらない!」「いらない!」「こんなのいらない!」と。
頼られても自分の予定と体力を犠牲にして全力で応えなくてもいい。
甘えに対して相手の希望通りに丁寧にい応えられず拒否されてもいい。
楽しそうなグループやコミュニティの仲間に入れなくていい。
夫婦で知り合いでも夫にばかりコメントや連絡する人がいてもいい。
私は、みんなに好かれたいの?
いや、好かれなくっていいんじゃないの?
そうだよ、別に、好かれなくていいんだ。
あれ?
意外に好かれたいわけじゃないかも?
別に、相手に好かれなくても、
こっちが好きでいればそれでいいのかも?
くるくると踊りながらどんどん脱ぎ捨てると
めちゃくちゃハートチャクラが開いてきて
どんどんハッピーになっていった。
頭ではわかっていた「ベストを尽くして嫌われるなら仕方ない」こと
私は、私にできることをやればいい。
どう思われようと、嫌われようと
その時点のベストを尽くして
それでも嫌われたなら、気にしない。
それは頭では、ずっと前からわかっていたこと。
だけど、踊りながら自分の内側に向かうことで
「嫌われること」への不安とか
「好かれたい」というエゴとか
本当は「手放したい!」と思っている自分に
どんどん気づいていく。
身体を動かす、躍る瞑想だからこそできた
手放し方だったなぁと思う。
好かれなくても意外に平気だし
今、大切な家族との間にある
信頼と愛情があるのだから
私にとっては「足るを知る」という
学び(人生の課題)でもあったと思う。
これ以上、だれかの愛情を求めるのはエゴだ。
「受け入れてもらえない感」を
抱き続けることの無意味さを思い知り
今後の私の人生には
「これ、絶対に必要ないな」と心から思えた。
私は、私をどんどん脱ぎ捨てる。
「受け入れられない感」という先入観と
「好かれたいというエゴ」を昨日、脱ぎ捨てました。
あぁ、スッキリ。
5リズム、ありがとう!
躍る場があってよかった。
躍る仲間がいてよかった。
うれしさが込み上げてきた。
私はすでに、しあわせ。
私はすでに、しあわせ。
そんなふうに「リリカル」を踊って
体重が軽くなったのか?
と思うほどに、スッキリした昨日だった。
そのときのリリカルは、この曲↑↑で踊った!