光と影の狭間で揺れる夢
光と風の中で揺れるスティーヴンソンの姿に、自分の過去の後悔が重なって見える瞬間がある。中島敦の『光と風と夢』で描かれる彼は、まるで南洋の孤島に漂着した自分自身のようだ。自由を求め、理想を追いながらも、その先に待つものが虚無であることに気づいている。それでも手を伸ばさずにはいられない、その姿が痛々しいほどに美しい。そして、わたし自身もまた、同じように生と死の狭間で揺れる存在だ。
「昔、私は、自分のした事に就いて後悔したことはなかった。しなかった事に就いてのみ、何時も後悔を感じていた」という言葉の意味が、今になってようやく理解できる気がする。何かをすることで、その結果がどうであれ、少なくとも自分なりに納得できる。後悔することはない。けれど、何もせずに見過ごした瞬間、手を伸ばさなかった可能性に対する後悔だけは、いつまでも消えないまま心に残る。
南洋の風に吹かれながら、スティーヴンソンが追い求めた夢と同じように、わたしもまた、何かをしなかったことへの後悔に苛まれている。光を追い求めるその手が、もし届かなかったとしても、その行動自体がわたしを救うはずだ。けれど、選ばなかった可能性、それを知らずに終わることの恐怖は、一層強い。夢と現実の間で揺れるその感覚は、まるで光と風の狭間に漂うようなものだ。
死生観を考えるとき、この後悔の感覚が一層鮮明になる。死とは終わりであり、その終わりが避けられないものである以上、生きる意味は何なのかと問い続けざるを得ない。けれど、後悔を恐れるからこそ、生きることに価値を見出さなければならない。死が待っているという事実が、わたしに生の輝きを一瞬だけ与えてくれる。その瞬間に感じる後悔や迷いこそが、生きている証なのかもしれない。
結局、夢とは手を伸ばし続ける行為そのものだ。光に向かって伸ばす手が届くかどうかは問題ではない。その行動こそが、わたしに意味を与える。スティーヴンソンが見た光の向こうにある影も、わたしが手に入れられなかったものへの後悔も、全ては夢の一部だ。そして、その夢がいつか崩れると知りながらも、なお手を伸ばすことに、生きる価値があるのかもしれない。
人生とは、行動しなかった後悔に苦しむ時間の積み重ねだ。その後悔に飲まれながらも、それでもなお、光を追い求め、風に揺れる存在であること。それが、わたしの生きる理由なのだろう。
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