鏡の向こうに囚われて
鏡に映る自分の顔が、どうしても好きになれない朝がある。何度も角度を変え、光を調整してみても、そこにあるのは変わらない自分の顔。美しいと言われたい、認められたい、けれども何をどうすればいいのか分からない。鏡の向こうにいるのは、いつも誰かの評価を気にしている自分自身。誰かの「可愛い」「綺麗」という言葉に縛られて、もう自分が何を感じているのかすら分からなくなってしまった。
SNSに上がる写真たち、完璧な笑顔、理想的なプロポーション。誰かが「いいね」を押すたびに、わたしは自分の価値がまた一つ下がったような気がする。あの子みたいな顔になりたい、あのモデルみたいな体型が欲しい。それなのに、どうしても手に入らない現実が、わたしの肌に深く食い込んでくる。自分の姿が正解かどうか、誰も教えてくれないから、勝手に不正解だと思い込んでしまう。結局、「綺麗」と言われるために、生きているのかもしれないと思う瞬間すらある。
他人の視線が怖い。目が合ったとき、何を見られているのか、どんな評価をされているのか気になって仕方ない。道端を歩いているだけでも、誰かの評価のために存在しているように感じる。誰かの「可愛い」「綺麗」に依存して、やっと一息つける瞬間がある。だけど、その一瞬すらも不安に変わる。なぜなら、その言葉が消えた瞬間に、わたしの価値はなくなるから。
ルッキズムとは、見た目だけでその人の価値が決められること。わたしはそのルールの中で必死にもがいている。他人に認められたい、けれども自分のことを本当に見てほしいとも思っている。外見が全てじゃないと言い聞かせながらも、結局、外見でしか見られないことに苛立ち、また自分を追い詰めてしまう。外見を超えて存在するわたし自身を、わたしですら信じられなくなっている。
どれほど外見を気にしても、どれほど誰かの「可愛い」「綺麗」を求めても、その先にあるのは、ただの空虚だ。綺麗になったとして、次に何を望むのか。もっと綺麗になりたい、誰よりも美しくなりたいという欲望が、果てしなく広がっていくだけ。結局、自分を救うのは「美しい」という言葉ではない。「あなたでいい」という言葉こそが、わたしを本当に解放してくれるのかもしれない。
ルッキズムの檻に閉じ込められたわたしは、他人の視線に怯えながらも、誰かに「そのままでいい」と言われる日を待ち続けている。でも、その言葉が届かない限り、わたしは自分自身を切り刻んでしまうかもしれない。
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