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いいねに縋る

数多の日数、投稿をサボっていた自分が悪いのだがいいねがこれとなく付かないと自信が滅法なくなる。それは、小さな数字が心を支配する現代の一瞬の感情。何気なく投稿した言葉や写真、誰かに見てもらうために指先で送り出すのに、その瞬間に鳴り響く通知音を待つ時間の長さが不安を呼び起こす。「いいね」が付かないという事実は、まるで自分自身が否定されたかのような感覚を呼び覚ます。誰にも届かない、誰の心にも触れられない。画面の向こう側にある虚無が、自分の存在をかき消していくように思える。

「いいね」というシンプルなボタン。たった一つの反応が、なぜこれほどまでに人を左右するのか。それは、誰かの「承認」という幻影を握りしめようとする欲望の表れだろう。いつの間にか、自分の価値が数字に置き換えられていることに気づくと、その虚しさが心に響く。それでも、誰かの承認が欲しくてたまらない。いいねがないと、自分の価値がどんどん溶けていくように感じてしまう。目に見える評価に依存する生き方が、心を細く削り取っていく。

いいねが付かないたびに、わたしは自分を無価値だと思ってしまう。その反応がなくなるたびに、心が落ち込んでいく感覚に陥る。まるで、自分の存在そのものが、誰かに見てもらえない限り無意味だと感じるように。それは、自分の本質を他人の評価に預けてしまった結果であり、自分自身を見失った証拠かもしれない。結局、わたしは「いいね」という数字に、わたし自身を明け渡してしまったのだ。

数字が少ないだけで、どうしてこんなにも心が揺れるのか。それは、社会の中で誰かに認められることへの渇望が、わたしの中で育ってきたからだ。生まれた時から、承認を求め続ける習慣が無意識のうちに染み付いている。そして、その渇望が「いいね」に象徴されてしまっている。

自信とは、自分の内側にあるもののはずなのに、いつの間にか外に委ねられてしまう。誰かの反応がなければ、自分の存在意義が揺らぐというのは、まさにこの時代の病のようだ。自分の価値を他人に決めてもらう瞬間に、自信は壊れていく。いいねがないというただそれだけで、わたしは自分を否定してしまう。その恐怖が、わたしを更に深い虚無へと引き込んでいく。

Twitterについての投稿は不評だったのだろうか。
何だか悔しいので今日は投稿を三つします。

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