2009年、摂理(キリスト教福音宣教会)礼拝デビューまでのこと①
~ 前置き ~
この記事に書くことはあくまで2009年当時の内容です。摂理に関する情報で現在変わっているものもあるかもしれません。
摂理内部では礼拝初参加のことをデビューといいます。
所謂本当のキリスト教(※記事最後の備考を参照)と違い、摂理ではメンバー皆が参加する礼拝にはいきなり参加できない仕組みです。
30個論という摂理独自の教えを最後まで修了したらデビューという仕組みです。30個論は統一教会の教理に似通っています。
私がデビューしたのは2009年でした。ほとんどの摂理メンバーと違い、 まさかの嫌々デビューでした。
2009年というのは摂理にとって大転換期でした。
というのも、トップのチョンミョンソク氏が女性への性的暴行の罪でその数年前に逮捕され、裁判の末に懲役10年の刑が確定した年だったからです。
それだけでなく、摂理メンバーは皆チョンミョンソク氏がいずれ来たる再臨のメシヤ(救世主)だと信じており、そこが教理の核心でした。にも関わらずチョンミョンソク氏自身が「自分は再臨のメシヤ(救世主)と教えたことは無い」と述べたからです。
激動の2009年にデビューした私でした。
30個論(BS:バイブルスタディ)の学習からデビューまで
摂理に偽装サークルを通して勧誘され、30個論(BS:バイブルスタディ)を学び始めた私ですが、なんと序盤の講義で気づいてしまったのです。
この団体、『摂理』と言われる所なんだと。そしてトップのチョンミョンソク氏が性的暴行の罪で裁判中なのだと。
30個論の序盤の講義は「まあそう読むことも確かにできるかも…!」という、怪しさはあまり感じない当たり障りのない聖書の話。
幼少期に通っていた教会では聞いたことが無かったな…と少し思った程度でそこまで怪しいとは思いませんでした。
しかし違和感も少し覚えていました。
摂理メンバー(信徒のこと)のみんなが一人の“牧師先生”を非常に慕っている。一般的な教会の一牧師さんや神父さんの扱いとはかけ離れた扱いに感じていました。
先輩メンバー:「私たちの尊敬する牧師先生は、救いの教えを宣べ伝えるために世界中を飛び回っているんだよ」
実際には性犯罪で国際指名手配されており、海外逃亡⇒裁判にかけられていたので先輩の話は真っ赤な嘘だったのですが…。当時サークルを通した偽装勧誘から摂理の人達との関係をがっちり構築されてしまっており、精神的な居場所が摂理の人達になっていた私は半ば無理やり気にしないようにしていました。
聖書の勉強をしていることは「心配されるから」と家族や周囲に話さないよう口止めをされており、素直に従っていました。
しかし、今の時代。教理がネットに載っているのでは。そう何気ない気持ちで『ペテロと魚』『日よとどまれ』『エリヤとからすのパン』という講義名を調べたところ…
青ざめました。あの時の心臓がバクバクした感覚を今でも覚えています。
この団体は『摂理』だったのです。
みんなが大好きな“牧師先生”は婦女暴行の罪で裁判に…。
独自の聖書の教えもおかしく、牧師先生であるチョンミョンソク氏が聖書に書かれている再臨のメシヤだという教理で…
私が学んでいたBSもチョンミョンソク氏が人類にとって唯一無二の、特別な存在だと悟るためのものだった…。
その時の気持ちは…書ききれません。
ものすごく動揺しました。現実のことだとピンとこないような、でもこの事態を受け入れなくてはいけない、という思いも…
自分が慕っていた摂理の人達は何故引っかかってしまったのだろう、同じく偽装勧誘から引き込まれたのか、とか…
偽装勧誘に引っかかってしまった自分への怒りもありました。「まさか、自分が騙されていたなんて…」「出会いも全て仕組まれたものだったのに気づかなかった…」
そして、自分を騙した摂理の人達への憤りや嘆きも…。
「時間を、返してほしい」これは切実な思いでした。
この展開から何故?と思われるかもしれませんが、結局BSを最後まで聞きデビューすることになりました。その経緯は今後の記事で。
★次回へ続く
備考
①摂理では『ビギナーズ礼拝』という信者らが参加するのとは違う当たり障りのない内容が話される礼拝もあります(今もそういう扱いなのかな?)
②(※)正当なキリスト教:使徒信条から逸れておらず、今も今後もイエスキリスト以外に救い主はいないと信じる教会のことと定義させていただきます。念のため使徒信条も載せておきます。派閥を超えた共通のものです。
使徒信条(しとしんじょう)
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、
イエス・キリストを信ず。
主は聖霊(せいれい)によりてやどり、
処女(おとめ)マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、
かしこより来たりて、
生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、
聖徒の交わり、罪の赦し(ゆるし)、身体(からだ)のよみがえり、
永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン。