独り追善―或いは雨中の掃苔録―
一夜を酒場で款語の内に明かし、窓外が白んだ頃、私は新宿の駅へと独り向かった。
未だ、秋の気配はあらず只歓楽に水を指すが如き湿潤とした風が摩天楼の合間を縫って吹く。過ぎ去った馬鹿騒ぎを反省ししばらくは一人でいなくてはならないと、明け方のドブ臭き匂いが鼻腔をくすぐるうちに、そう思った。徐に歩調が早まったのは孤独への希求のその証左共言うべきか。が、この時刻に始発へ急ぐ人々は多かった。内心、その様な堕落した男女を痛罵したき欲求が識閾を出でんとしては居た。だが、私とて同じ穴の狢には違いがなく、何も朝から己が身を棚に上げる必要もあるまい、とそれを押し殺す。
やや酒臭き中央線にて窓外に目をやれば、流石に真夏の朝は早い。もう、闇夜の痕跡なんぞはあらでただそこには朝があるだけだった。
中野を超えた辺り住宅が目につく様になる。そこもまた胎動を初めており、道々には犬を散歩させながらタバコを蒸す親父なんぞが見られていると知ってか知らずか、寛いでいた。
私は何ら変わり映えのしない家屋の窓の燈を認め、生活の気配を感じ、自分のーそれは至極甘な感慨に違いはないのだが―どうにも納得の行きそうには無い末尾を思い消え入りたい衝動にただ駆られた。
それを現実逃避と呼ぶならば、そうしてもらって結構である。元よりその呼称についてあれこれ論じ様と思いもしない。が、少なくとも私にとってそれは現実逃避以上に現実対峙としての機能がある。私小説の事だ。いかにして私から遊離している現実を、その幻を掴み取るのか、件の小説はそれを教えてくれた。
西村賢太が没してもう二年になる。あれは二月であろう。自室にて漫然とネットを逍遥している折、当該の死亡広告に出会った。突然死。ケンタッキーを買いに行ったその帰り、タクシーの中で昏倒しそのまま行きては帰らぬ人となった訳だ。彼らしい最後だと思った。そして、念願の清造全集は未完の儘、没後弟子は師の墓標の隣に収まった。
金沢駅から七尾駅までは七尾線で一本である。特急を使えば一時間強で着くがその本数は東京のそれと比せば当然ながら雲泥の差。
私は始発に近き五時半に金沢を発した。各駅停車である。一時間四十分程乗って、乗車中、空は完全に明けた。
七尾駅に達し、駅からややカーブを描きつつも果てまで続く道の先には日本海が広がっている。それを見た事がない私はまず、駅より十五分ほど歩んだ所にある静かな工場の脇にあった小道を通って七尾湾を見物した。すると重く垂れ込める雲から雨が降り始めたのだった。傘など持っては居ない。私が携行してきたのは僅かにカメラとラッキーストライクのみである。只、濡れそぼつしかなかった。
西村賢太の実質的処女作「墓前生活」の冒頭の通りでは西光寺は必ずしもなかった。曩時の震災で寺も甚だしい被害を受け、本堂は半壊し彼らの墓も地蔵堂倒壊の影響を如実に受け損壊した。それでも本堂及び藤澤・西村両氏の墓は再建されていた。だが、他の墓石は必ずしもそうでは無い。未だ、損壊の方が目立っていた。そして山門はなかった。
私は両氏が埋葬される墓前に首を垂れ何がしか、求救に似た名状し難い思いを只哀願するより他すべき事はなかった。「その無念を引き継がせてくれ」なぞ軽はずみに思いはすまい。
只、静かに往時の二人を偲ぶ私の、体に冷たい雨が降り注いでいるのみであった。
これより先、私はどうする。一日ぶりの我が居室の煎餅布団に横たわりなす沈思黙考はやがて西村の『芝公園六角堂跡』に書かれた言葉に行き着いた。
そうだ。我が人生、とどのつまり徒手空拳であろうが形影相弔であろうが、己が身果てるまでは争い続けるべきである。そうして私は今日も私小説を書くべく生きるのだ。
(了)