この世とても旅ぞかし
諸手を懐中に入れながら歩いた。そうして初めて冬の到来を感じる。今までこの諸手の所在はどこであったのか、ふと考えざるを得なくなる。吹く風にーまだ幾分かまろやかさを残してはいるがー肩を窄めて身を守る体制に自ずからなる。
いまだ秋めいてはいた。山岳の紅葉は落ち切ってはおらず、ならばしばらくは秋の残滓をこの街でも感じられるだろう。歩んで時折目に入る樹々の葉はまだ落ちそうにない。だがそれは私の目に悲しく写った。一体何にそう感じているのだろうか、などと詩人の真似事をする我が身を嘲笑せずにはいられない。句でも、歌でも詠んでみるかとも思ってみたが私の手元にある語彙はひどくすくない。それでも強いて、日本語の規則に従って配列する。ゆっくりと列を成す文字達は何らの感慨も起こさせてはくれなかった。恥ずかしくもなく誇らしくもなく、拙劣でもなく、なんでもない。初めから終わりまで周囲に消える言葉だった。
思い返せば、と歩みを信号に止められた時にふと湧き上がった。
ー思い返してみると・・・
しかし、その後が続かない。目の前にはただ寂寞している。果てのない海中を漂っている様だ。いつも、追懐は直に疑問符が打たれるのだった。
ー「思い返す」。何を?
昨日は過ぎ去ったのを知っている。今更、現在から排斥された屑の山に、屑以上の物が見つからないのを承知している筈だ。そんなところに自分の探している何かなんぞある訳がない。記憶、それとても同じ事。そこには何もない。少なくとも私の求めているものは。
とはいえ、なぜ記憶は屑にも関わらず輝いて見えるのか。
幻影は遠ければ遠いほど美しく見える、ただそれだけの理由に過ぎない。ただ今の、汚れた我が身の対極にそれがあるからに他ならないのだ。
次第次第に四顧は暗くなっている。いつの間にか繁華の巷を過ぎ、人の声も車の音も絶えがちになっていた。私は一人静かに誰もいぬ、いつも通りの道を歩む。
この道や行く人なしに秋の暮
芭蕉の句である。それがここにおいて出た。今まさにそれがある。実景というべきか。
一人が良い。それ良いならそれがいい。
とはいえ、他者を退けても、自分の裡の実態の無い、自分の殻を被った他者が立ち現れるからどうもならん。人は他者といる時、本当の意味で初めて一人になれるのだ、とそう結論した事もあった。愛する相手ならば尚。その世界において愛する人はその人の他、自分さえも涼やかにそれでいて優しく滅却されるのだから。
その中で日々が流れる。日々が続く。そして、終わる。結局、夢であるから。また、再び一人へ立ち戻る。
星が輝いていた。諸手は先ほどよりも深くに。
帰らぬは古、止まらぬは心づくし
そんな言葉を古人は吐いた。
憂世、いづれにしても苦行か、この世は。夢幻にすがりつつ、それと共に心中するのが関の山。届かぬと知りながら尚も星々に手を伸ばすのか。それも良いだろう。
この世とても旅ぞかし、生きるなら今しばらく。そして行けるならばもう少し先へ。
(了)