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開一の思い出

先日、学生時代の友人との飲み会で、子どもの頃の中学受験の話となり、ふと「開一(かいいち)」について話題となった。

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開一とは、30年以上前に僕が通っていた中学受験塾「桐杏学園※」西日暮里校のクラスのことだ(※とうきょうがくえんと読む)。

正式名称は「開成一組」(あったのか不確かだが)。

首都圏の中学受験の難関校、御三家のトップである開成中学を名を冠した、桐杏学園西日暮里校の最上位クラスだった。

僕は小学6年生の頃、その開一クラスに所属をしていた。

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開成中学と言えば西日暮里にあり、桐杏学園の校舎はそのすぐ近くにあった。まさしく開成を目指すための塾・校舎であり、夏季講習や冬期講習という時期には、「開成合格」という鉢巻を頭に巻き塾の周りをランニングし、開成中学の校門の前で「開成合格!エイエイオー!」という掛け声(奇声)を上げていた。

随分近所迷惑であり狂気を感じる塾だった。

当時1990年代前半の中学受験にはそうした一種異常な熱気があったことを記憶している。

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僕の記憶では、桐杏学園は当時の首都圏の難関校中学受験塾の中では大手だった。四谷大塚、日能研、TAP、そして桐杏学園が四大塾だったと思う。

現在桐杏学園は中学受験塾ではなく、当時競合だった四谷大塚の子会社/一事業部として小学校受験対策の塾となっている。

その四谷大塚も、東進ハイスクールを運営するナガセ社に買収されている。

TAPからは現在では首都圏トップ受験塾となったSAPIXが分岐した。その後のTAP自体の話は聞かない。

日能研だけが変わらず今でも存在しているようだ。駅前で見かける「N」のリュックサックを背負った子どもの姿は当時と変わらない。
(※記憶で記載していますので、事実と異なっていれば恐縮です)

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さて、開一クラスに話を戻したい。

開一は、西日暮里校に所属する6年生男子の中で、成績トップの30名限定のクラスだった。僕はその常連だった。今でも思い出すということは、当時相当誇らしく思っていたのかと思う。

ちなみに女子を対象とした「桜一(おういち)」というクラスもあった。女子のトップ桜陰中学から名前を取ったクラスである。

桐杏学園は当時1学年2000‐3000名ほどの受験生が通っており、毎週末テストが行われていた。1か月間のテストの成績を経て、クラス分けが発表された。毎月月末になると開一クラスから脱落しないかハラハラしていた記憶がある。

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開一30名は、成績順に席次が決められていた。

一列6人×5列。成績最上位1番から6番までが最前列に座ることができた。当時の黒板と最前列の席は近かった。また最上位である1番の席は左端だった。1番の席は結構黒板が見づらかったのではないかと思う。

僕は1番の席に座ってみたいと思っていたことを覚えているが、残念ながら1番どころか最前列に座ることは無かった。僕は開一30人の中で「中の下」。いつもだいたい15番~25番くらいの後ろの方にいた。

何度かよい成績を取った月があり、最高で2列目に座ったことがあったが、その位置をキープすることはできなかったことを覚えている。

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20人強が開一の常連メンバーだった。今ではもうメンバーの名前を思い出すことができないが、受験塾という割にはギスギスした雰囲気はなく、子ども達同士仲が良かった。6年生になると週5日、夕方17時から21時まで四教科の授業があったが、休憩時間はゲームをしたり漫画を読んだりしていた。

僕はクラスの友人と遊ぶことを楽しみに塾に行っており、勉強にはあまり集中していなかったと思う。当時僕は、横山光輝の漫画「三国志」にハマっており、開一クラスの仲間を三国志の登場人物に当てはめたりして、同じく三国志好きだった友人と語り合っていた。

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開一の一つ下には「開ニ」というクラスがあった。開一30名のうち、5~6名は毎月開二の上位メンバーとの入れ替えがあった。

小学6年生の間で、僕は一度だけ開二にクラスが落ちたことがあった。当時発売されたドラゴンクエスト4にハマりすぎたことが原因だったと記憶している。クラスが落ちたことを受験に熱心だった母に猛烈に叱られ、ドラクエ4を隠された。開一クラスに翌月に復帰した際に、ゲームソフトを返してもらったが、それに懲りて多少は真面目に勉強をするようになった。ほどほどにしたがドラクエ4も引き続きやっていたが・・・。

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桐杏学園の開一の先生方で思い出に残っているのは、一人は社会のS先生。黒板を縦に6分割し、その中に小さい文字でびっしりと書き込んでいく。目が悪い生徒だったら後ろの席からは見えなかっただろう。文字は小さかったが地理・歴史・公民等の話は分かりやすく面白かった。

算数のO先生。4教科で僕は算数が苦手だった。開成中学の算数の問題は難しく、思考力が問われた。僕は思考よりもパターン認識で学習するタイプだったので6年生になってから算数についていくことに苦労をした。O先生からはパターンに頼るのではなく、本質を考えることを教えてもらった(結局、思考力が要求される難易度の高い算数の問題は最後まで苦手だった)。

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6年生の一年間の日々は足早に過ぎていった。日々の塾があり、夏休みには夏季講習、冬休みには冬期講習、そして正月特訓。

僕はあまり受験勉強に真剣になれず、埼玉の実家から西日暮里まで道すがら、月曜日は少年ジャンプを読み(その頃ドラゴンボールはフリーザ編のクライマックスであり夢中になって読んでいた)、それ以外の日は当時発売されたばかりのゲームボーイをプレイすることの方が楽しみだった。それでも年が明け、2月の中学受験の日が近づいてきた。

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開一クラスに在籍をしていたメンバーのほとんどは、当然ながら開成中学を志望していたようだ。僕も漠然と開成中学を受験することになると考えていた。しかし、当時の母の希望もあり開成中学の受験日と同日の慶應義塾普通部を受験することとなった。

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開成中学も慶應義塾普通部の受験日も2月1日。「あれ~?そうなの?」という感じだったことを覚えている。

開一では年明け以降、授業中も「開成合格」の鉢巻きを巻いており、授業開始前に「開成合格エイエイオー!(絶叫)」もやっていた。「開成受験しないんだけどなぁ」と思いつつ、開成合格エイエイオーをしていた。

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2月1日、中学受験当日のことは朧げに記憶している。

慶應普通部の試験はそれなりに手ごたえがあったが、理科の問題に植物のイラストから種別を回答するという問題があり、どうしても分からない問題があった。後から、それは「葛の葉」であることがわかった。後日、中学の同級生とも話題になった問題だった。開一メンバーのほとんどは、同日開成中学校の試験を受けていたようだった。

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2月3日、開成中学の合格発表の日。僕は自分の志望校の結果が出ていないにも関わらず、なぜか開成中学の合格発表に足を運んだ。開一メンバーと会えることを期待して行ったのだが、今から思えば迷惑な野次馬小僧だった。

メンバーの結果はそれぞれだったことを記憶している。席次の一列目の常連メンバーだった友人K君は不合格だった。合格して歓喜の声を上げていた開二クラスの友人と会うことができた。

12歳の子どもである。普段どれだけ成績が良くても本番で普段通りの実力を発揮することは容易ではなかったのだろう。僕自身は同日か翌日か、慶應普通部に合格をし、その後進学をすることとなった。

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開一メンバーと最後に会ったのは、桐杏学園が3月に開催した合格祝賀会だった。開成に不合格だった開一クラスのトップにいたKくんは、関西の難関校である灘中学校に合格して進学すると言っていた。僕が入学した慶應普通部は、開一メンバーからは僕以外誰も進学しなかった。あの時の30人のその後は分からない。

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あれから30年以上の時が経ち、あの時の開一メンバーはどうしているのだろうか?所謂学業優秀、秀才の集まりだった子ども達はどのような大人になったのか、ふと、思いを馳せてみた。

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