私の履歴書#3 高校一年生(インドネシアでの原体験)
(2020年4月17日金曜日)
私は大学院修了後、26年間教師をしているが、国際交流が常に教育活動の基軸となってきた。高校教師の頃はカナダでの一か月間ホームスティプログラムを引率し、JICAの夏季高校教員派遣プログラム(ザンビア)にも合格した。新潟の短期大学では、オーストラリアやイギリスでの語学研修を引率した。現任校ではゼミで毎年南アジアや東南アジアで国際学生交流プログラムを開催している。タイやネパールに2年間暮らし現地の学生たちと協働する機会にも恵まれた。さらにAAEE, 一般社団法人アジア教育交流研究機構の代表理事としても、国際学生交流を推進している。昨年からはベトナム行政府のアドバイザーも任されることとなった。
通常業務もしっかりとこなした上での国際交流。振り返って考えると、我ながら思わず苦笑してしまうほど、怒涛の日々であった。
その間、同僚や知人から幾度となくこう問われた。
「なぜ、そんなに国際交流にのめりこむのですか。」
しかし、その問いに対して丁寧に答えた試しがない。一言で答えられる問いではないし、何よりも私ごときの人生談に付き合わせることを気兼ねしていた。
「私の原体験を学生と共有したい。」
一言で答えればこれが原動力となっている。
本稿では、私が国際学生交流プログラムを志すきっかけになった「原体験」を記す。
話は1984年、高校1年生の頃に遡る。それまで外国とは縁のなかった田舎暮らしの私が、ひょんなことからインドネシアにホームスティすることになったのだ。
新潟の雪深い小さな町で育った私は、中学生時代まで外国や外国文化とは無縁の生活であった。15歳まで、外国人を見たのはたった一度きり。東京にもほとんど行ったことがなく、電車で2時間離れた新潟市にすら怖くて一人で行くことも出来ない田舎者であった。
そんな私が高校1年の夏にいきなりインドネシアにホームスティに出かけることになったのだ。これは自分から希望したものではない。前年に、先生に言われるままに、校内暴力で荒れた中学校で過ごした経験をスピーチしたのだが、図らずも全国大会で文部大臣賞を受賞しその副賞がインドネシアでのホームスティプログラムだったのだ。(私の中学生生活については「私の履歴書#2」で書いた)
インドネシアで待ち受けていたのは想像を遥かに超える、新しい経験だった。
かねてから私は「この山の向こうに行きたい」と雪けぶる越後山脈を睨みつけ、小・中学生時代を過ごしてきた。そんな夢が突然に叶ったのだ。出発前、私はインドネシアについて中学や高校の図書館で調べ、ジャングルでも生き抜ける装備をリュックサックに詰め込んだ。
しかし、いざインドネシアのジャカルタに到着して驚愕。飛行機を降りて眼下に広がるのは大都会だった。「この山の向こうへ行きたい」と望んでいた新潟の片田舎の少年は、越後山脈も東京も通り越して異郷の地ジャカルタの大都会に降り立ったのだった。
出会うもの全てが未知だった。言語、宗教、気候、食べ物、ホームスティ先の家庭。
まず、そんな全てが未知の世界に放り出されたからこそ、言葉の大切さを痛感した。
英語で自分の伝えたいことがスムーズに伝わらない不自由さにもがき続けた。もちろん(日本語)スピーチで文部大臣賞を獲得するくらいだから、鈍感に言葉を使用していたつもりはない。だが、“伝わらない”という英語の壁に直面するたび、言葉の大切さを痛感した。この時の歯がゆさは飛行機に乗せて持ち帰り、帰国後まるで何かに憑かれたかのように英語を学ぶ動機になった。正直、授業は全く当てにせず、自分で勝手に学んだ。結果、音声のない我流での英語個人学習であったので発音はダメだが得意科目にはなった。その結果・・・、あれから35年経った今でも外国と英語と切り離せない生活を送っている。大学院終了後に高校の英語教師となり、ヨーロッパの人と結婚し、現在は勤務先の東京経済大学で「異文化コミュニケーション」を担当し国際交流委員長も務めている。どう考えてもインドネシアでの原体験がなければ今の私はない。
インドネシアのプログラム中、ふとした時に世界地図をじっくりと眺めたことを記憶している。
まず確認したのはインドネシアと日本、次に自分が育った魚沼盆地が臨める新潟の田舎町を探した。大きな世界地図の中で「日本」は小さく、探すのに手間取った。世界地図という巨視的視点で俯瞰すれば、日本ですらそんな小さいのだ。私の故郷の町の大きさは言わずもがな。点としても捉えることが出来ないほどちっぽけであった。
それまで私の生きてきた“世界”。地元の高校だとか、商店街だとか。そういうものはグローバルな尺度で見ればとてつもなく狭い世界に過ぎなかったのだ。愕然とした。
このとき自分の胸にストンと腑に落ちた「世界はこんなにも広い」という実感。(今思えば少々若さを伴った傲慢さを感じて恥ずかしいが)、「目の前に広がるこの風景(インドネシア)は僕の故郷の人たちには誰にも見えていないんだ。あんなちっぽけな世界にまた戻らなければならないのか」と帰国する飛行機の途上うんざりした(と日記に記してある)。
当時私は15歳の高校1年生。15歳の少年にとって、10年後、20年後の自分は想像だにできなかった。ほんの少しだけ想像しようとしてもピントの狂ったカメラで撮った写真のようにぼんやりとしか、将来像は映らなかった。
だが、インドネシアで貴重な体験をし、さらに地図を眺めて「世界の広さ」を知り自分の中で明確になったこと。
「このままじゃいけない!」
そんな思いがメラメラと胸に燃え上がった。
インドネシアでは、多くの時間を同年代のインドネシア、日本の学生と共に過ごした。インドネシアの学生との交流はとても刺激的で生涯忘れないが、日本人の学生メンバーもすごかった。全部で8人程度だったと記憶している。僕はスピーチコンテストの副賞で参加したが、他のメンバーは日本政府のプログラムに応募して選抜された有志たちだった。例えば日本の伝統芸能「能」の梅若流人間国宝のご息女や、インドネシア居住経験のある外務官僚のご息女など。新潟の自分の狭い世界(コンフォートゾーン)に閉じこもっていたら一生出会うことのないような、ツワモノ揃いだった。頭のキレがあり、堂々と自分の意見を主張しつつ、行動力も備わった彼らに気圧された。
だが幸運なことに、こんなツワモノ揃いのメンバーの中でも私が一番優っていたことがある。当時15歳だった私がもっとも年長者だったのだ。小学生や中学生が多くを占める中で、高校生の僕は自然にリーダーのような役を任された。日本からの引率者や、インドネシア現地プログラム運営者側の大人と過ごす時間が多くなった。
そして、こんなすごい国際交流プログラムを運営する大人たちを羨望の眼差しで見つめ、「自分もこんな仕事がしたい」と思うようになった。
それから数十年、気づけば私自身が学生主体の国際交流プログラムを運営している。
Experience without learning is better than learning without experience.という諺がある。「学問なき経験は経験なき学問にまさる」という意味だ。振り返ると私の人生は、この諺に関連付けて考えることができる。
例え幾百冊の書物を読んでも、経験を伴わない机上の空論では学生の心に響かないし実感を湧かせることが出来ない気がする。一方で、自分の経験に基づいて考え学んだことならば、伝え方(教え方)さえうまくいけば、同じ人間、個々の学生の心に届けることができるのではないか。教壇に立って何百人もの学生に講義をする際にはこの気持ちを大切にしている。結果私の授業には私自身の実体験満載である。
思えば、大学入学以降の僕の学びはインドネシア・プログラムでの“経験”に“学問”を結びつけていく作業だった。
異文化交流や言語について学びを深めるごとに、インドネシアでの経験が学びや研究へと深化して行った。
私が東京に出てきて、南アジアや東南アジアで一風変わったタイプの国際学生交流プログラムを始めた当初、直面したのは決して肯定的な意見のみではなかった。前代未聞の取り組みに対する風当たりは決して穏やかなものだけではなかった。
それから14年。まるでまっさらな荒野にレンガを一つずつ積み重ねて城壁を作るように、先例のない中で私はプログラムを継続して徐々に実績を積み上げていった。真っ暗な暗闇の中手探りでプログラムを発展させて行く中で、手元を照らす指針となるのはずっと昔のあのインドネシアでの原体験だった。
「多文化共生」が日本社会のキーワードとなる昨今。原体験と知識が一体化した私自身が今後果たすべき役割を真剣に考え始めている。
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