私の履歴書#20 国外居住 ② ネパール
(2020年8月22日土曜日)
タイの歴史に刻む大洪水が収まってネパールからバンコクへ帰国したものの、洪水の爪痕が色濃く残り教育機関も大混乱の真っ最中。とても教育調査のお願いなどをできる雰囲気ではなかった。逆の立場になってみたらもし自分の家が水没しかけて混乱しているところに、ノコノコと外国人が「教育の調査が・・・」などと押し掛けてきたら迷惑千万どころの心象ではない。「何を呑気な!」と、人によってはビンタを食らわす衝動にすら駆られるかもしれない。
だが僕は教育調査を目的に日本を飛び立った、研究の進捗を生まずに帰国するわけには行かない。まさか研究成果の代わりにお土産のお菓子をたっぷりスーツケースに詰め込んで日本に帰っても歓迎されるはずがないことは火を見るより明らかだった。頭を抱え悩んだ末に決意したのがネパールへの拠点移動である。「拠点移動」わずか4文字だが、経験者には周知のとおり引越しは国内でも一苦労だ。外国からさらに外国への家族を伴う引っ越しは想像以上の大きな作業だった。しかし、このままバンコクに居続けた場合のビジョンが、まるで山頂で濃霧に遭遇したかの如く見えなくなってしまっていたのだ。
東京の本務校には正直に事情を話し、許可はいただいたが家族でのネパール引っ越しはさほど単純ではなかった。ドイツ人妻は驚異的全世界対応型グローバル人材(7か国語話者)。食べるだけで世界中の人と言葉が通じる秘密道具として、ドラえもんの「翻訳こんにゃく」があるが、妻は「翻訳こんにゃく」を食べずして地球上のほとんどの国で言葉が通じるのだ。言葉の問題は考慮しなくても良いと思い、どこでも大丈夫だと思っていたが、「カトマンズ(首都)だけはやめてほしい」と言われてしまった。理由を聞くと深刻な大気汚染。彼女の理屈はよく理解できたがカトマンズ大学客員教授のポジションが得る目途が立っていた僕はかなり戸惑った。さらにネパールでは高等教育はカトマンズに集中している。さらに頭を悩ませたのが小4の二男の学校。
考えに考えたあげく出した結論は、カトマンズからバスで8時間程度の場所に位置し、ヒマラヤの玄関口とも呼ばれる“ポカラ”という小さな町(といってもネパール第二の都市)に住む方法だ。ここならば空気も悪くないし知り合いにも恵まれている。妻は納得した。しかし、二男にはやや酷な経験をさせざるを得なかった。僕自身が当時関わっていた貧困児童救済のための学校に“留学生”として受け入れてもらったのだ。狭い一部屋に8人がひしめく全寮制。担任の先生は17歳。教師の平均年齢18歳。洗濯は川で、水は井戸水。これほどの劣悪な環境で小学時代を過ごした日本人(&ドイツ人)は彼の他にはいないと断言できる。ただし、僕はそこまで無責任ではない。彼の学校のすぐ隣の高層階に暮らし、毎日学校を観察した。それどころかアドバイザーとしてほぼ毎日学校に通い、高校生教師たちに“教え方の指導”までした。ちなみに、そこの生徒たちは農村部の極貧家庭の子どもがほとんどであったが、頭はキレる子たちだったので、教え方を工夫すれば力はついた。息子には、ほぼ毎朝2時間、僕自身が日本の教科書で‟ホームスクーリング“して補った。ちなみに二男のネパールでの暮らしの集大成は:
➡https://www.fujitv.co.jp/charity/event/2013_1206zenbun.html
当時のネパールは政治的にかなり不安定で、新憲法もなかなか制定することができずストライキが頻発していた。1日に18時間もの停電にはさすがに度肝を抜かれてしまった。18時間といえば1日の4分の3にも相当する。もはや電気製品はほぼ意味をなさない世界であった。そんな中ポカラのネパール観光大学に客員教授として籍を置かせていただきながら、教育の中心地であるカトマンズにもよく足を運んだが、物事が順調に進むことはほとんどなかったと言ってよい。教育省や高等教育機関では、深刻な“汚職”を眼前にして何度も絶句した。僕自身、非常に大事な場面で「包み」を渡さなかったばかりに大変大きな犠牲を払った(詳細は退職後に話す笑)。
この窮地を救ってくれたのはネパールの学生たちであった。特に、僕の活動を知って手伝いたいと申し出てくれたMahimaという女子学生は、その後家族ぐるみで僕の活動を支え、持ち得るすべてのネットワークを駆使して最大限の努力をしてくれた。彼女を通じて知り合う人たちは善人ばかり。協力者が一気に増えていった。ポカラだけでなくカトマンズの善人たちとも急速に繋がっていった。
現在でも僕は多くの時間を学生と過ごし、「学生パワーで世の中に変革を!」という活動をしているが、その原点がMahima。そして、彼女を中心とした数名の学生と9か月間もかけて作り上げたのが、2013年2月に開催した「ネパール ― 日本学生交流プログラム2013」現在の国際学生交流プログラムの原型だ。僕の日本での前任校(新潟県立大学)の学生たちからの依頼を受けて実現したものだ。熱中したらトコトン突き詰めるところのある僕はまるで重箱の隅をつつくように、側から見たらあまりに細かいところまで突き詰めて準備したので、彼らは正直“ウザい”と思っていたかもしれない。でもMahimaは辛抱強く彼らのモチベーションを維持してくれた。結果このプログラムは大成功。僕の心に新たな世界が広がった。
ちなみに、僕が代表を務めるAAEE, アジア教育交流研究機構のフェイスブックのページを立ち上げてくれたのも彼らだ。10人ぐらいの学生で一生懸命にAAEEの活動を宣伝くれた。
帰国数か月前のある日、一人の学生が「プロフェッサーが帰国する前にお礼として何かプレゼントしたい・・・しかし僕たちにはお金がない」と嘆いた。僕は冗談で「AAEEのフェイスブックで1,000人を達成したら僕は天にも登る心地だ」と答えた。その冗談を真に受けたネパールメンバーは本気で集客を始めた。
そして僕がネパールから日本に帰国する数日前。パーティーが開かれ、そこで彼らの友人が押して見事1,000人を達成。クラッカーで祝った。超感動した。今や20000人を超すフォロアー皆に、あの時の感動伝えることが出来たらいいのにとよく思う。(1000人を達成した瞬間の映像は:
➡https://www.facebook.com/akinori.seki.54/posts/484887954906399
フォロアー20000人に達したAAEEのページは:
➡https://www.facebook.com/AsiaAssociationOfEducationExchange/ )
最後に余談となるが2年間の海外在住中、ある出版社と契約してある雑誌で「アジアの国の学校」という刊頭特集を執筆させていただいていた。調査のために短期滞在した8カ国で高校や大学などの教育機関を観察させていただき、その様子を12回に亘り執筆して記事にしていただいた。そのおかげで東南アジア、南アジアで多くの善良な方々と知り合うことができ、今でも交流を続けている。
苦難の二年間であったが、同時に多くの「心豊かな」親切な方々に支えられて満足のいく国外研究生活を終えることができた。何よりもこの二年間で得た最強のネットワークがその後の僕の活動を飛躍させることとなった。