見出し画像

【連載】“クソったれ”な日本の教育#1:あなたの授業はゴミです。


「【連載】“クソったれ”な日本の教育」は、教育者である私が日本の学校教育に物申すコラムシリーズです。教育者から見える日本の学校教育が、どれほど“クソったれ”かを、怒りと皮肉たっぷりでお送りします。

***


息子が教科書を捨てた。大量に。

今年で19歳になった彼は浪人を経て、つい先日受験生としての生活を終えたばかりだった。彼の使った教科書やノートにはびっしりと——教育・研究者である私でさえ驚くほど——多くの情報が、几帳面な息子らしく丁寧な字で書きこまれていた。私は一瞬「どうして捨てるんだ!」と止めようとした。しかし、一呼吸置いて、私はその“ゴミ捨て”を手伝うことにした。なぜなら、彼の気持ちが痛いほど理解出来たからだ。

彼は叩きつけるように教材をビニール袋に投げ込んでいた。それを手伝いながら、私は彼の心が見えた。

もしこれを読むあなたが教育者なら、あなたの授業は捨てられたのだ。まだ生意気な口を利く未熟者の私の息子は、あなたが教えた英語を、古文を、数学を何の躊躇もなしにゴミ箱に突っ込んだのである。そう、叩きつけるように。

それについてどう思うか。もし「仕方ない」と思うなら、あなたは教育者としてその程度ということである。もし「捨てるやつが悪い」と思うなら、あなたは自分を棚に上げて他者を批判する馬鹿者である。これは、日本の“クソったれ”な教育の表れである。



私はこれまでSNSで日本の教育を批判することを避けてきた。それは、「親としての責任」があったからだ。私には二人の息子がいて、私が書くものにも目を通す。難関大学合格に向けて、難しい英文法を覚え、積分を解き、「むずむずじしむましまほし」と唱える息子の横で、日本の教育は最低最悪だ!とは言えないからである。
そして今、ようやく下の息子の受験が終わった。ここから私は「教育者としての責任」を果たさなければならない。それこそが私が今、“クソったれ”などと若干汚い言葉を使ってでも怒りを表明する理由である。

このままではいけない。日本の教育は教育者によって𠮟られなければならない。



ゴミに出されたノートの授業=ゴミにされる授業は一体何が問題であったのだろう。
つまらなかったから?もう見返す必要がないから?それとも、無駄だから?

それはひとえにその授業が彼にとって受験のための勉強でしかなかったからなのだが、しかしここで問題なのは「受験のための勉強が無駄」だと学生に捉えられている現状である。
もし仮に、受験のための勉強であっても学生を真に感動させ、学生の心に響くようなものであれば、その受験勉強は“ゴミ”にはならないだろう。問題は、このような教育者に無礼な行動を選択するのが私の息子に限らないということである。私は大学教員として、大学生が私の息子と同じような行動を少なからず取ってきたことを知っている。


授業を担当する教師は今一度生徒との向き合い方を問い直そう。
「なんだこいつ、かなりうざい。」と思ったそこの先生。あなたの授業はゴミにされていないと言えますか?

授業は良いものであるべきなのである。先生は良い授業をすべきなのである。
「あの学生は課題を出さない」「居眠りをする奴がいる」「最近の学生は本を読まない」等々、そんな話題に時間をかけるより前に、まずは自分の授業である!

巷では、大学共通テストがどうのこうのと議論され、あっちが良いこっちが良いと言い合って、決まったかと思えば白紙に逆戻りする連続である。共通テストの話し合いに時間をかけるくらいなら、自分の授業について少しは真剣に考えたらどうだ(頑張っている先生からは石が飛んできそう・・・)。

これは大学教員にとっても同じである。自分の専門分野の授業でさえ学生に居眠りされてしまう教育者が、教育理論について、カリキュラムについて、評価について語る資格などどこにあるだろうか。あなたのゼミ生の教育実習生の方がよっぽどマシな授業をするという可能性すら排除できない。少なくとも彼らは授業についてとてもよく考えるからだ。

もちろん、授業を学生の心に届くようなものにするには、大変な(そして恐ろしいほどの)労力を要する。そんなに生ぬるくはないのである。ところが、自分の授業そっちのけで偉そうに試験やカリキュラムを淀みなく語ろうとするエセ教育者は後を絶たない(いよいよ袋叩きに遭いそうだ)。これは全くナンセンスである。だからこそ、あなたの授業は捨てられるのだ。そのことに教育者は気づくべきである。



「先生が好きだから、英語も好きになりました!」、あるいは「あの先生嫌いだから、数学嫌い!」とよく聞くだろう。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」はあながち間違いではないのだ。だとすれば、教育者の腕次第で学生の学習意欲はどうにでもなるということだ。


文理融合の議論が行われ始めてから大分時間がたった。ただそれを実践し、成功した教育機関はどれほどあるだろうか。未だほとんどの高校や大学で、文理の概念は固定化されたままだ。

ただ、もし文系科目の先生の授業が面白く、また別の理系科目の先生の授業も面白くわかりやすければ、学生は自ずと両者を活かせるような進路に進みたいと思うだろう。極端な言い方になるが、すべての教科の授業からしっかりと学ぶことができれば、生徒の心の中で勝手に文理が融合されていくのではないか。

生徒の顔が思い浮かばない、会議に悩殺される教育者はそれを恥と思え。現場をないがしろにした政策が学生の心に響く事例など存在しないのである。それでもなお、授業より会議が大事なら、違う星にでも行ったら良い。タコみたいな宇宙人はそんなあなたを歓迎してくれるかもしれないし、レーザー銃で焼き殺すかもしれない。

もう一つある。もはや私の怒りは止まらなくなってきた。

これもまた“クソったれ”ランキング上位にランクインしていることだが、よく教育者は
「今の学生は本を読まない」
「今の学生はスマホ中毒だ」
「今の学生は夢がない」
などと戯言を抜かす。

もしそんなことを言う者がいたとしたら、私はこう言いたい。あなたはプロフェッショナルではない。あなたはプロの教育者の皮をかぶった、学生を気遣っている風のアマチュアだ。

スマホに夢中なら、それに対応した授業を展開すべし。
本を読まないなら、違う媒体を用いてアプローチすべし。

教育者とは学生の問題に対処する者のことだ。学生を批判する者のことでは、決してない。

初回からかなりかっ飛ばした内容になってしまったが、これで私がどれほど本気で日本の教育を良くしたいと考えているか、どれほど怒り狂っているかは分かって頂けたのではないか。

今回は私が総じて言いたいことは、ゴミにされる授業を放っておくな、授業に学生に真剣に向き合えということである。もし、真剣に向き合っても捨てられるなら、あなたは真剣には向き合ってないのである。教育とは酷なものだ。学生の心に届かないものは教育とは呼べないのである。プロの教育者とはそれを克服する者なのだ。


編集:関昭典、永島郁哉

いいなと思ったら応援しよう!