Fujikoと呼ばれて気になる他人の視線
イタリアンレストランで働きだして1年数ヶ月。
イタリア人と働くことで、より深く彼らの性格や常識を掴むことができています。
その一つに名前を呼ぶことがあります。
私たち日本人は、あまり人の名前を呼びかけません。
なぜ呼ばないのか?
呼びたくないのか、呼ばなくても会話できるからか、
人に触れるように名前を尊いものだと思っているからか、
この辺りの感覚は忘れてしまいました。
イタリア人と働き出して、とにかく名前をよく呼びます。
しかも省略形にすることで親しみがグッと増します。
シェフはレオナルダという名前です「レオ」と呼ばれています。
話しかける前は必ず名前から入ります。
「レオ、トマトを注文してください」
「レオ、これをやっときましょうか?」
「レオ、私の好きなまかない作って!」
「チャオ、レオ。また明日!」
年上や上司なんて関係なくみんな同じように話しかけます。
不思議な感覚ですが、オーナーにも同じです。
名前を先に付けることで、「ねぇ、聴いて!」「耳を澄まして!」
「私に注目!」と、注意を払うように促しているのだと思います。
逆に、私も名前で呼ばれます。
Etsuko はイタリア語で発音しづらく、
エットツゥーコ となる人が多くいます。
だから、「エツー」と呼ばれています。
ですが一人、私のことを日本の名前で呼んでくる同僚がいます。
最初は「Toshiro Mifune」と呼びかけられました。
60代とあって、この年代の人は特に印象に残る日本人だったことでしょう。
黒澤明作品に多数出て、ヴェネツィア国際映画祭で男優賞を獲得したこと、
監督としても成功したことでイタリアでも有名になりました。
私はというと、彼のことを「Kurosawa」と呼んでいます。
ですが、最近
名前が変わりました。
Fujiko!
ルパン三世の峰不二子です。
ある日、まかないを食べている時のこと。
「ねぇ Kurosawa、私のことを Fujiko と呼ぶけど、
みんながどんな絶世の美女か期待しちゃうじゃない!
豊満ボディな女性だと思って、こっちを向いたら…こんなんだよ!」
すると Kurosawa は真剣に目を見て、
ゆっくりと声のトーンを抑えて応えました。
「君のどこに問題があるの?
君はブサイクだと思ってるの?
このままで充分美しいんだよ。」
脳天を撃ち抜かれました…
私は、Fujiko と呼ばれることから受ける、
他人の目を気にしていました。
不二子に近づける要素は少しもないどころか程遠いと…
いつも人の顔色を伺い、他人に合わせる。
これをやって育ってきた私には、
自分で自分に寄り添うことがなかなかできません。
そうじゃない。
私は私を認めて、こう呼ばれることに喜びを感じるくらい
自分を愛するべきなんだと気付かされました。
夫との関係がうまく行っていないのは、
この部分に問題があるとも言えます。
自分を認めていないから、他人も認められない。
何気ない同僚との会話で気付かされました。
これを読んでいるあなたはどうですか?
「ふ〜じこちゃ〜ん」や「イチロー」と呼ばれて、
「はぁ〜い!」と愛想よく応えられるでしょうか。
「自分を一番に想い、大切にして愛すること」は、
簡単ではありません。今、少しずつ自分を見つめ直しているところです…