「風魔」絵コンテ(シーン77・78・88・89)
●シーン77・78
ルパンが五変化する幻覚シーン。大塚康生と言えば、『歴代ルパンの様々な顔を並べる』という遊びをそれまでにも何度か版権イラストで試みていた訳だけれど、此処へ来て遂に、アニメ本編でそれを実現してしまったというのが傑作ですね。しかも「幻覚の場面である」という設定を巧く活かしたサービスだってのが実に見事です。
●シーン88・89
ラストの場面。解説ではこの場面を「五右衛門と紫の恋の決着がドライに過ぎ、余韻に乏しいので、ラストショットの9秒は実に長く感じる」と評しておりますし、大塚康生自身もインタビューの中で「五右衛門と女の子の別れも余韻がない」と語っているんだけれど…何だかこう…どうもあんまり同意出来ないんですよね。僕はあの場面はあれで良かったと思ってます。確かに最初に見た時は「呆気無いなぁ」「あっさりしてるなぁ」と感じました。だけどその物足りなさってのは実はラストシーンの問題ではなくて、「全体が70分である」という尺の問題だったんだろうと思うんですよね。「もっと観たかったのに、もう終わっちゃったのか」という気持ち。
更に言えば、あの「ややドライ」な感じってのが、将に「風魔」っぽくて良かったんじゃないかって気がするんですよ。ああいった具合の、少しドライでライトな雰囲気ってのこそが将に「風魔」の特徴だったし、当時の時代の気分が綺麗に取り込まれていたと思うんです。80年代後半の、あの時の新しい「ルパン」ってのは、あれが正解だっただろうと。しかも、表面上はああやって一見あっさりしているように見えて、その実、各人が色々と胸の内に秘めているものがあるんだってのが、こっちにはきちんと伝わって来るじゃないですか。特に紫の「待っててあげないからね~!」なんてのは物凄く秀逸な台詞ですよね。彼女のパーソナリティが良く顕われてて。
だからもしも仮に、あのラストシーンを、もう少しキャラクターの心情なり何なりに寄り添って、もう少しドラマ的に引っ張っていたとしたら、逆に今度は「長過ぎる」感じがしちゃうんじゃないか?って気がするんですよ。五右衛門と紫は結局映画の最後には別れる事になるだろうってのは最初っから判っている事(「カリ城」の構造を倣っているから余計に自明)で、だから「風魔一族が滅んで、崩落する洞窟からルパン達が全員無事に脱出出来た」時点でもう物語としては既に終わっているようなものだし、だから別れの愁嘆場にはもうあんまり時間を割かなくても良いだろうと。
変に湿っぽくならずに、ああやってスッと終わってしまうというのが「風魔」ならではの持ち味だったと思うし、そういった独特の軽快さみたいなものが、当時の「ルパン」という作品には特に必要だっただろうって気がするんです。「マモー編」があって「カリ城」があって、「ルパン」というシリーズの幅はどんどん拡大されましたけど、ドラマ性やテーマ性なんかどっちでもいい、そんなに大上段には構えずに、肩の力を抜いて楽しめる長編という方向性がそろそろ開拓されるべき時期だったのは確かな事で、だから実際「バビロンの黄金伝説」なんてのはそっちを向いてた訳ですけど…まぁそれがあんまり上手く行かなくて…其処で「風魔」がそれをスカッと達成した意味ってのは実に大きかったと思います。
そうなって来ると、やや物足りなさを感じてしまう『70分』という尺自体も「あれで良かったんだ」と思えて来たりもして…徹頭徹尾娯楽に徹して、ワーーッと駆け抜けてスパッと終わるコンパクトな秀作、尺は短いけれど、その分みっちりと娯楽成分が詰まっている「風魔」のような作品ってのが、あの当時の新規路線としては本当に正解だったと思いますし、だからそういった「風魔」的な路線というものが、以後に継承されなかったってのが残念でならない次第です。
それはそうと…どうもこう…大塚康生自身による「風魔」評は「かなり厳しめの採点だなぁ」ってのがあって、それはまぁ作り手自身は勿論そうあるべきなんだけれど…受け手である僕にしてみれば「風魔」ってのは殆ど文句が無いんですよね。「五右衛門と女の子の別れに余韻がない」については今回書いた通りですし、「美術や音楽も良くなかった」について言えば、音楽に関しては以前書いた通りですし、美術についてもやっぱり「充分に上出来だった」と考えてます。勿論「カリ城」における小林七郎の素晴らしい仕事なんかに較べてしまうと流石にアレですが…「風魔」は「風魔」で実に見応えのある美術だったと思います。
それでも大塚康生と意見が一致してしまうのは、やっぱり演出面の弱さについてなんですよね。これだけは結局どうしても其処に行き着いちゃう。「エンタテイメントとしてはよく出来ていると思いますが、アイデア勝負の弱点がよく出た作品」「鍾乳洞のトラップなんかも、実に丁寧にやっているんだけど、全体の構成が散漫」「五右衛門対ボスの戦いや最後の大崩落などのドラマが、今ひとつ盛り上がりに欠けますね」というのは確かに「風魔」の弱点だと思います。個々のアイデアは本当に秀逸なものばかりで、それが全編にみっちりと詰め込まれているってのは物凄く贅沢なんだけれど、後一声、何かしらの映画的な仕掛けなり見せ方なりが欲しかったんですよね。
全体の作りがオーソドックスなのはむしろ賢明な判断で、オーソドックスな器にありったけの料理を並べる、その料理の一品一品の手が込んでいるってのは大賛成なんだけれど…そういった選択をするならば、何処かで突出した何か、オーソドックスな枠組みから外れる、独特のプラスアルファが必要だった筈なんですよ。実際にそういった試みは、例えば紫や風魔ボスの人物造型などに多少見受けられるんだけれど…何かこうパンチが足らない面があって…だから映画としてはちょっと大人しい印象、小さな枠に収まっちゃった印象がどうしても拭えないってのがある訳です。
だからやっぱり、「風魔」という作品が孕んでいる決定的な弱点ってのは、強烈な作家性を持った監督の不在って事に尽きるだろうと。画面の面白さやトリックの面白さはもう充分過ぎる程に達成しているんだけれど、映画的な仕掛けだとか、映画的な世界観、あるいは映画的な見せ方(※)といった部分が不足しているんですよね。「風魔」という作品に対して僕が不満を感じるのは唯一この部分だけです。
(※)世界観が云々とか「映画になってる・なってない」なんてのは抽象的な言い回しだから、本当はもっと適切な言い方があるんだろうけど…判る人には判るだろうし、判らない人はいくら言い換えても伝わらないような気もするので、このまま無責任に終わります(苦笑)
(※初出 / mixi / 2012年12月7日)