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山崎忠昭に関する長文
一週間ほど前から例によって神戸に滞在中。
今日(厳密に言えば昨日)は彼女が仕事に行ってる間に神戸市立中央図書館に一人で出向いたのでありました。その目的は山崎忠昭著の「日活アクション無頼帖」に目を通す事。著者の山崎忠昭は「ルパン」にも参加した脚本家で…つまり「ルパン」に関する言及が何かしら載っていないかなぁと淡く期待しての調査だった訳ですが…結果を言えば、特に収穫らしい収穫は無し。
表題にもある通り、日活アクションに関する書籍なので、アニメ作品に関する纏まった言及は基本的に無く、「ルパン」に関して言えば、巻末に載っている雪室俊一インタビュー(雪室俊一が山崎忠昭についてを語っているインタビュー)の中に多少の言及がある程度でした。
それはそれとして。
そのインタビューの中にちょっと心に留まった言葉があって、それはーー
『ルパン三世』シリーズ(一九七一ー七二)も熱狂的なファンの間では山崎さんが書いていた最初期が一番、面白かったという評価があるようですね。
ーーというものなんだけれど、実は此処で指摘されている事自体に特別に何か思う事があるという訳ではありません。「山崎忠昭が脚本で参加していた所謂『旧ルパン』は熱狂的なファンの間で支持されている」…それはその通りの事です。何の異論の挟みようもありませんし、今更何かハッとするという訳でもありません。が。僕はこれを「旧ルパンに脚本で参加していた山崎忠昭は熱狂的なファンの間で支持されている」と勝手に読み替えた上で「いいや、そんな事は無い」と、これまた勝手に脳内議論を展開させてしまったんですが…つまり何が言いたいかと言うと…「ルパン」における山崎忠昭に対する巷の評価があまりにも低すぎるだろう、という事を改めて考え直した、という次第なのです。
そもそもアニメを語る際に、スタッフについてを云々するという事自体が世間ではあまり成熟していない、というのが残念な現実だったりする訳ですが、とりわけ「ルパン」においてはその傾向が強く、これだけ語られてきた作品であるにも関わらず、そのスタッフに対する言及というのは恐ろしい程に貧弱で、名前が挙がるとすればそれは、大隅正秋や宮崎駿などといった一部の演出家、大塚康生や青木悠三などといった一部の作画監督、あるいは山下毅雄や大野雄二などの作曲家、山田康雄や小林清志などのレギュラー声優…といった具合に、極めて限られた面々に過ぎなかったりします。更に言えばそれらも、ファンによる単なる好き嫌いの表明に過ぎない私語り的なものが多く含まれているのが現状だったりもして、およそ評論らしい評論、評価らしい評価というものが、作品の知名度からすれば恐ろしい程に少ないと言うしか無い、というのが実際のところでしょう。
脚本家について言えば、山崎忠昭と同じ無国籍映画畑の大和屋竺が、ディープな映画ファンやルパンファンによって熱っぽく語られたり、次元主役ハードボイルドの金子裕や、怪作コメディの浦沢義雄などが、(そもそも脚本家に対する言及自体が少ないんだけれど、その中においては)割にファンの間でも比較的言及されがちなのに較べれば、山崎忠昭に関する言及は圧倒的に少ない…と言うか、およそ言及らしい言及を僕は目にした記憶がありません。あるいは柏原寛司のように『知名度の割に実は大した貢献は何もしていない』存在が、それでもファンの間で云々されるのに較べると、山崎忠昭はまるで存在しない脚本家であるかのように、誰も何も言わないのは一体全体どうした事なのか。山崎忠昭が「ルパン」において果たした功績を踏まえれば、この黙殺っぷりは如何様に不当な扱いだと言うしかなく、だから積極的にきちんと評価する必要があるだろうと僕は常々考えていました。
とは言いながら…
山崎忠昭が担当した話数は少ないので、だから意識され辛いんだ、という事はあるんだろうとは思います。「ルパンは燃えているか‥‥?!」「十三代五ヱ門登場」「ルパン三世颯爽登場」「カリブ海の大冒険」「ルパンの敵はルパン」「ルパン一世の秘宝を探せ」…この6本が山崎忠昭脚本の全てです。しかし。数は確かに少ないけれど、こうして並んだタイトルを眺めれば、実に重要な作品が並んでいる事に気付くのではないでしょうか。
まずはやはり「ルパンは燃えているか‥‥?!」で…これが記念すべきアニメ「ルパン」の幕開けだった訳ですが、この記念すべき第1話は、その後の「ルパン」の方向性に大きく影響を与えた一本として、単なる『第1話としての重要さ』だけではなく、もっともっと他の面でも特筆しなければならない作品だと僕は捉えています。「ルパン」が「007」の影響下に誕生した作品である事は周知の事実で、実際に原作ルパンには「007」的なテイストがあれこれ含まれています。が。決定的に欠けていたものがあって、それは何かと言えば…「007」において印象的だった一種独特なスケール感、これは原作ルパンでは表現されていなかっただろうと思うんです。ルパン帝国を巡る描写などで多少近いようなニュアンスも存在はしますが、世界の拡がりと言うか、仕掛けの大掛かりさのようなものは実はそれほど強調されておらず、それよりはむしろ無国籍映画的な空気の方が支配的だったと言えるのではないか、と。つまり「ルパン三世」というシリーズに、本当の意味で「007」的なスケール感を持ち込んだのは山崎忠昭だったと言えるだろう、というのが僕の考えです。
原作ルパンの中の「DEAD HEAT」を換骨奪胎した「ルパンは燃えているか‥‥?!」は、まずその換骨奪胎っぷりが見事な一本で、原作で描かれた『とりたてて面白い訳でもないレース中の入れ替わりトリック』を面白く昇華したのは、これは演出や作画の功績と言える部分でしょうが、そうやって原作を膨らませた部分以外、新たに付け加えた要素であるところの敵対組織スコーピオンの存在がこれまた実に重要な部分で、この点における山崎忠昭の功績を是非とも強調しなければならないでしょう。
敵対組織というアイデア自体は既に原作にも備えられている要素ではありますが、アニメに登場したスコーピオンが原作のそれと一線を画すのは、既に原作にあった要素を更に魅力的に膨らませてある点です。原作に何が足りなかったのかと言えば、それはスコーピオンを巡る描写に横溢している『それっぽい』ディティールの数々で、それらによって「ルパン」は本当の意味で「007」的な大人のファンタジーの『気分』を完全に導入し切ったのではないでしょうか。
アニメ「ルパン」がこういったテイストの作品でスタートした事はかなり重要で、もしもこの第1話が無かったならば、後の「マモー編」などもあるいは生まれなかったのではないか?とも思える訳で、つまりその後の「ルパン」の路線の一つを確立した一本として、決して素通り出来ない作品がこの「ルパンは燃えているか‥‥?!」だったんだ、と言えるだろうと考えています。
そして「十三代五ヱ門登場」も、原作の五右ェ門絡みのエピソード群を実に巧みに纏めた一本で、ある意味、アニメ「ルパン」における五ヱ門というキャラクターは、その初登場であるところの本作が一つのピークだったと言っても構わないだろうという程に、此処で描かれている五ヱ門は魅力的です。原作の魅力を実に巧みにアニメに移植した演出、脚本、作画、声優達の功績は極めて大きいと言うか、あまりにも凄すぎて「結局は此処が頂点」のようになってしまったのが何だか皮肉な話ではあります。
敢えて誤解を恐れずに言えば、この後の「狼は狼を呼ぶ」のラストで、五ヱ門がルパン一家に仲間入りした時点で、アニメにおける五ヱ門というキャラクターはもう完結してしまったとも言えるだろうと思う訳で…いや勿論『その後の』五ヱ門も重要なレギュラーキャラクターの一人ではあるんですが、それでもやはり「ここで一回終わっちゃってる」「ここで既に燃え尽きてしまってる」ジレンマのようなものを否定は出来ないと言うか、何かそんなようなものを常に通奏低音として抱えているキャラクターであるように僕には思えます。閑話休題。
そして新ルパンの第1話である「ルパン三世颯爽登場」においては、ゲストキャラクターの再登場というネタがシリーズにおいて初めて使用され、その時間的な繋がりによって、ファンへのサービスと、前シリーズとの連携と、ドラマ的な盛り上がりとを一挙に成立させてしまったという点がまず素晴らしいですね。
加えて、ここでも旧ル第1話と同様に「007」的な世界観を強調しているのがミソで、ミスターXのキャラクター造型や、彼が用意した復讐の仕掛けの数々などのエンターテイメント的な賑やかさ・豪勢さといったようなものは山崎忠昭が「ルパン」というシリーズに持ち込んだものだと言えるだろうと思います。
「原作ルパンはゴージャスだ」といったような事が、原作者自身やファンの間では割に頻繁に口にされていて、ある意味では実際にそうだと僕も思うんですが、此処で言うゴージャスさというのは、高等遊民的キャラ造型といったような精神的余裕の部分の問題だったり、あるいはもっと即物的に金銭的な豪勢さだったりして(それも改めて冷静に考えれば、巷で言われている程に強調されていたとも思えなかったりもして何だかアレ)、つまり山崎忠昭が旧ル第1話や新ル第1話で持ち込んだ類いのゴージャスさ、ゴージャスな世界観というものは、それまでには表現されていなかった要素だろうと思うところです。
「カリブ海の大冒険」は、これまた原作ルパンの中の「宝がザクザク」を換骨奪胎した一本で、これまた原作で描かれた本線のストーリー・アイデア自体は特に面白いものでもなく、アニメに移植されたそれも特に語るべき部分は見当たりませんが、散漫な印象の原作を再構築して纏め上げた手腕は評価するべきかも知れません。あまりにも普通な印象の作品なので、改めて何事かを語るのは難しいんですが、しかしこの普通さが実は曲者で、新ルパン以降のアニメ「ルパン」における基本フォーマットの一つを確立した作品だと言えるのではないでしょうか。
そしてまた、原作に無い要素、新たに付け加えた要素として黒魔術教云々があって、初期の段階でこうしたオカルト要素をシリーズに持ち込んだ意味も大きいでしょう。時代的な事を考えれば自然な流れだったとも言えますし、何より、オカルト云々と言えば山崎忠昭よりもむしろ宮田雪をこそ強調しなければならないだろうという事があったりするのでアレなんですが、それでも、オカルト云々は置いておくにしても、こういったプログラムピクチャー的な構造をシリーズ初期に持ち込んだ一人が山崎忠昭だったんだという事で言えば、これまたシリーズのターニングポイントとして意識する必要がある一本だったんだと言えるのではないでしょうか。
「ルパンの敵はルパン」は、これまたゲストキャラ再登場ネタを使用した作品で、此処でもまた「007」的な気分が強調されてはいますが、演出や作画がどうにも安っぽいためか、どうにも安っぽい作品に堕してしまってますね。『ルパン対ルパン』というアイデアが秀逸なだけに、ちょっと勿体無い感じ。
何だか山崎忠昭脚本は演出や作画次第で、その偉大なる通俗エンターテイメントっぷりが単なる通俗・単なる凡庸に堕してしまう危険性を常に孕んでいると言えるのかも知れません。
「ルパン一世の秘宝を探せ」でもやはり「007」的な線を狙っていながら、これまた安っぽく不発。演出や作画が安すぎるのもアレだけど、これはそもそも脚本の時点で駄目だったんじゃないか、空回りしてたんじゃないか、という気がします。考えてみれば、曲者集団とルパンとの対決という構図は「ルパン」において何度か繰り返されたパターンではあるんだけど、どうも「これ!」といった成功作が見当たらない感じ。それはもうアニメにおいても原作においても。
これはやはり基本的に一話完結方式なのがネックなんだろうと思うところで、限られた放映時間や頁数の中で、きっちりと魅力的な対決を描き切るのはそもそも無理があるんでしょう。その辺はアニメスタッフも原作者モンキー・パンチも当然判っていて、だからこそ一話完結というフォーマットを外して、前後編やシリーズ連作によって『対曲者集団』ネタを描くといった事が何度か試みられた訳ですが…それでもやはりどれもこれもが何だかいつも竜頭蛇尾で、折角魅力的なキャラクター群が登場したとしても、結局はいつも消化試合じみた展開で息切れしてしまうのが実に残念で実に不思議なところです。閑話休題。
こうして大雑把に山崎忠昭脚本作品を振り返ってみると、どうしても夢想してしまうのは「テレコムが担当していたらどうなっていただろう?」「青木悠三が担当していたらどうなっていただろう?」といったような事だったりします。旧ルパンにおいてはAプロが担当したりしてリッチな布陣だった訳ですが、それに較べると新ルパンでの場合は「カリブ海」を友永和秀が担当したのを除けば、どうにも見劣りしてしまうのが残念で、こうなると果たして新ルにおける山崎回がもう一つ突き抜けなかったのは、山崎忠昭自身の失速なのか、それとも料理した人間の能力の問題に集約されるのか、その辺が気になるところではあります。
(※初出 / mixi / 2008年3月17日)