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「風魔一族の陰謀」絵コンテ

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「おもちゃ箱2」は滅茶苦茶に資料性の高い同人誌な訳ですが、とりわけこの「風魔」コンテ・大塚康生パートの収録は大快挙でありましょう。「風魔」の絵コンテと言えば、「CGWORLD」2007年11月号にその一部(※1)が掲載された事がありましたが、何しろ今回は『大塚康生担当分全部』ですかんね。映像研究家・叶精二氏の解説(※2)に拠れば、大塚パートは「風魔」本編中の約2割に相当するとの事。その解説では大塚コンテの特徴として「ワンカットが長い」「アクションと時間軸に省略が無い」「カメラが余り動かない」という三点が挙げられておりますが、言われてみれば確かにその通りですね。この辺についてはまた後で触れます。

(※1)大塚康生コンテの1頁分と富沢信雄コンテの4頁分が掲載されておりました。
(※2)これがまた、非常に有益な副読テキストとなっております。

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僕自身がまず大雑把に俯瞰した際に注目したのは情報量の点でしょうか。僕なんかの場合、絵コンテと言えばどうしてもやっぱり宮崎駿のそれを浴びるように享受して来た口ですから、どうしてもやっぱり宮崎コンテってのが基本線みたいな感じになる訳で…そういった立ち位置からすると、大塚コンテはやや情報量が少ないような印象があったんですね。もっともそれはかなり歪つな感覚ではあって…何故なら宮崎コンテの情報量の多さってのがそもそも余りにも特異なケースなんであって、それを基準に考えるのが無茶な話ですから。実際、情報量の総量で言えば、アニメ界全体の平均的なそれに較べて、大塚コンテも「かなり大幅に情報量が多い」位でしょう。

絵コンテなんてのは一昔前まではそれこそ「丸描いてチョン」に毛が生えた程度ってのが当たり前でしたし、だから例えば「ルパン」のパイロットフィルムなんかを見ても、大塚康生のそれと杉井ギサブローや芝山努のそれとでは格段の差がある訳です。一口に言えば、パイロットフィルムの大塚パートは突出して映画っぽいです。

其処から時代が下り、宮崎駿のコンテが流通するようになって以降は、それが手本にされて、だからアニメ界全体の絵コンテのレベルが底上げされたってのはありますけど…それでも「風魔」の大塚コンテは「情報量が多い」部類に入るでしょう。まず言えるのは画面の密度が濃いという事ですね。確かな画力、秀逸なレイアウト、優れた演技プランに支えられた画面の密度は非常に濃いです。その点で言えば、ある面で宮崎コンテ以上に濃密だと言えるでしょう(宮崎コンテはスケジュールに追われまくって描いているというのもあって、かなりラフな画で片付けられる部分が含まれるので。その点「風魔」の場合はコンテが分業だった事もあってか、スケジュール的な余裕もあったのかも…??)。

だけどどうしても『トータルで見ると』あっさりした印象を持ってしまうのは、ト書き部分が割に淡白だからなんですよね。「画面に全てもう緻密に描いてあるから」というのもあるんだろうけども、画面内の説明・指示、あるいはキャラクターの心理だとか、そういった諸々に関する文章ってのが余り添えられておりません。もっともそれは「主にアクションシーンばかりを担当しているからだ」と言えば確かにそうなんだけれど…「それにしても」と思うんですよ。

更に言えば、『一連の動き』を結構細かくコマを割って描いている、だから勢いト書きが少なくなっているという面はあります(※3)。そういった事もあって、だからこの大塚コンテってのは『良く出来たレイアウトを繋げたもの』、あるいは『良く出来た原画を並べたもの』に印象が近いような気がするんですよね。やっぱり大塚康生という人は強烈に天才的な絵描き・アニメーターであって、その興味の方向性ってのはやっぱり画面だとか動きだとかって部分に集中していて、その分、ストーリー的な面については淡白な傾向があるのではないか?…と。

(※3)宮崎駿なんかも動きを細かく割ったりはするんだけれど、宮崎駿の場合はそれ等を1コマに収めたり、欄外に添えたり、あるいは画面内の指示やト書き部分で説明したりといった方法を採るので、だからその分のコマ数が増えたりはしない…という違いがあります。そうした点からいえば、大塚コンテと宮崎コンテの印象の違いは、あるいは『作法の違い』に過ぎないと言えるのかも…??

それでそれは、叶氏が評するところの「ワンカットが長い」「アクションと時間軸に省略が無い」「カメラが余り動かない」といった大塚コンテの特徴にも繋がって来る訳で…つまりキャラクター(人物だけではなく車なども含めた広義のキャラクター)の動きを描く事にこそ興味が集中している為、それが大きな特徴として顕在化しているんだろうと思うところです。

更に言えば、『やや』カメラが寄り気味(※4)な印象もあるんですが…それも多分、対象(キャラクター)を、対象の動きを、出来るだけ画面内で大きく扱いたいという心理が、意識的にか、それとも潜在的にかは判りませんが、とにかくはそういった心理が働いているからなんじゃないか?と思ったりもするんだけれど…実際にフィルムになった本編を鑑賞する際には「カメラが微妙に寄り気味」だとは特に感じないのが不思議だったりします。

(※4)僕自身が漫画を描く際、あるいは写真を撮る際に「カメラが寄り気味になる」ってのが癖なんだけれど…僕の場合、写真はともかくも、漫画の場合は余りにも「常に寄り過ぎ」で、だから「漫画になってない」ってのが不味いんですよねェ。ん~む…。閑話休題。

そういった具合で、だから「ト書きが少ない」といった印象に繋がるんだろうと思うんですが…それで思うのは…この辺がアニメーターと演出家の違いなのかも知れないという事です。宮崎駿にしろ押井守にしろ富野由悠季にしろ庵野秀明にしろ誰にしろ…およそ名の通った演出家に共通する特徴として『饒舌』ってのがあると思うんですね。皆揃って饒舌。それじゃあ大塚康生の場合はどうか?と言うと…際立って理論派のアニメーターであり、著作や談話も極めて量が多く、決して寡黙な存在ではないんだけれど…「それじゃあ饒舌か?」と言うと「饒舌という訳ではない」って事になると思うんですよ。

『映画』を『監督』する資質ってのは多分、ト書きの多さ・能書きの多さに正比例するんじゃないか?ってのが持論としてあるんですけど…つまり、画面・ストーリー・キャラクターなどのあらゆる面において、其処に物凄く沢山の色んな事を封じ込めたいという欲求を持っているか否か、そしてその前段階として、世の中の森羅万象に対して何だかんだ言いたい…それは別にテーマを掲げたい・メッセージを伝えたい・ストーリーを紡ぎたいという事に限らず…とにかく色んな事を喋りたい・語りたいってのが『映画』を『映画』たらしめる要素として必要なのではないか?と。

翻って大塚康生というクリエイターは「語りたい」ではなくて「描きたい」に完全に軸足があるタイプだし、あるいは友永和秀などの他の主要スタッフ達も恐らくは同じタイプであって、だから「風魔」は遂に『映画』としては完成しなかったんだろうと思うんだけれども…『映画』性が特には関係が無い、まだ特には必要とされていない前半部においては非常にテンションの高い作品として仕上がっていた訳だから、いっそ最初っから『映画』云々は一切志向せずに、そのまま突っ走ってしまった方が幸福だったんじゃないか?物語不要で良かったんじゃないか?…と思ったりもして。

何かこの辺の気分は、能天気だった漫画「紅の豚」が、あんな具合のアニメ作品になった事に対する、個人的に釈然としない気持ちにちょっと似た感じだったりするんですけども。

(※初出 / mixi / 2012年11月26日)