一元多様性と多元多様性
※この記事は全文を公開している、いわゆる「投げ銭」記事です。
「おすすめ」を見てたらちょっと気になる記事が。
つらつらと思うところを書きます。
最高存在の祭典
一つしか顔がなかったら、一つしか人種がなかったら、一つしか生命種がなかったらーー。
なぜ、表面としての差異があるのか。少なくとも、あるように見えるのか。
これを見たときに自分は「最高存在の祭典みたいだな」と感じました。詳細は調べてほしいですが、フランス革命における独裁政権を象徴する祭典です。
当時の祭典は理性崇拝のようですが、現代で言えば統計崇拝でしょうか。間違って使わなければ理性も統計も役立つんですが、崇拝しちゃうとダメですね。
独裁政権とわざわざ黒字にしたくらいなので自分は嫌ってます。何で嫌っているのかというのは、ドラッカーの「産業人の未来」を読めば分かりますが、一言でいうと現実からスタートせよということです。
現実とは何かというと、知識社会に適応できない人がたくさんいるという現実です。この記事で言えばサンフランシスコ市内に貧しく、希望を持てない人がたくさんいる。
自分は最近知識社会への備えが必要と言っています。その意味ではシリコンバレーの人と近いです。しかし、知識社会に適応できていない人、そういう人がたくさんいる現実がいて、葛藤がある。
そういう自分から見ると、葛藤がないのは人として間違っていると断言します。
一元多様性
次にこれです。
そうした学生たちが世代を超え、スタンフォード大学で過ごした時間が、この場所には“ある種の空気感として”漂っている。一面では、リベラルガチガチ、テックドリブン、表面的な多様性がない。それでも裏側では、“意思”と“使命”の共通軸によって分かちがたく結びついた精神が、時代を前へ進めようとしている。集合的な意思として。
ここで述べられている多様性(diversity)は自分が言うところの一元多様性です。一元多様性というのは、広がりがあるように見えるけれど、元は1つしかない、そういうことです。ここでは「リベラル」「テックドリブン」という価値観であることが前提で、その中であれば多様性は確保されている、しかしそれ以外の価値観は認められない、非常に排他的な価値観です。
じゃあこれと対比するものは何か。それは多元性(pluralism)です。数学で言えば実数と虚数のように、互いに相容れないものです。しかし相容れないものを共存させることによって、世界が広がります(実数と複素数の違い)。
言いたいのはそんなところです。
※この記事はここで終わりです。続きはありません。
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