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中高年からの「理性」と「遊び」について

数日前に風邪をひいて、小学校の遠足を休んだ息子が「もう熱下がったから」「キャンプファイヤー司会だから」とバンダナを巻いて訴えてくるので、午後からの予定を全キャンセルして河口湖まで送り届けてきました。

そんな高速の帰り道に、「夕方からこんなところまで来れるんだなー・・・」「本気出せばもっと遊べるんだなー・・・」なんて、ふと思い。

頭でっかちな中高年はいつの間にか、目的とか、意味とか、無駄とか、明日の予定とか、何かするときにこんなことから考えて、予測のつく、自分のコントロール下に置けるような毎日を設計していて。

予測のつく未来、不慮のことが起こらない環境。それはそれは素晴らしい、人類、いや全生物にとっての理想郷であることは間違いなく。

でも、そればっかりだとつまらないよね、刺激ないよねと。ヒトって本当にままならない。

ただ生命に危機の及ばない範囲、せめて遊ぶときには、目的やゴール、プロセスなんかを一切考えずに、心の動く方向感だけを決めて、体一つをそっちにポーンと放り出してみる。予測のつかない出来事や出会い、そこから発生するイベントにただただ期待して。

それは例えば子供の頃、夏休みや学校から帰ってきて、何か面白い事が起こることだけを期待して、あてもなく公園に行ったり、家にいるかもわからない友達の家に遊びに行ったり、自転車で遠くまで当てもなく行ってみたり。

そもそも予測がつないからこそ面白いわけで。

例えば、ドラゴンクエストⅢの発売日、おもちゃ屋さんに行列を作る人へのインタビューで「早くプレイしたいですか?」「もちろんです!」「100回クリアしてもやりたいですか?」「うーん・・・」となるように。

自分の心の赴く方向性で想像を超えてくることや、その期待があると面白いと感じるわけで。

未来に起こるだろうイベントをコントロールしようとするのではなく、体一つ、心ひとつで挑み、そこに意味や無駄、効率や明日の予定などを理性的に入れ込む余地もなく行動する。遊ぶ。そう、まさに遊ぶ。

理性⇒理性で考えて判断・行動するのではなく、感性⇒理性と、感性から出発するだけ、そして死なない、周りに迷惑をかけないくらいまで感性を引っ張ってからの理性、最後に理性、という順番と程度だけの問題でどっちが良い悪いの話ではないのに、こうも理性的であることや、合理的であることを疑わない、文字通り遊びのない人生になっていることに気付かされました。

あと、中高年は理性やリミッターを解除して、アグレッシブに動けてる、すんごいたくさんのことを自分できてる、もっともっと、もっとできるよー、と思えるだけで満足感があったりするのかもなと思いました。普段抑えている分。大人になった分。

理性との付き合い方は最近いろいろと思うことがあります。もっともっと向き合って、感性を露出、むき出し、本当の自分、心のヌーデストビーチを探し続けていきたいと思います。

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