指導言の指示ってのは、結構難しいと思うのですよ
「ちゃんと話しなさい。」「しっかり文章を書きなさい。」と先生は簡単に言う。でも、これって適切な指示なんだろうか。まず、ちゃんとってどういうこと? しっかりって何をどうやったらいいの?という疑問が浮かぶ。ちゃんとやしっかりしたの姿を見せてくれないと子供達にはわかりにくい。
そこを(多分、この”ちゃんと”はこういう意味だな)と先生の正解を推測できる子供は、ちゃんとが意味することを探し当てられるので先生に褒められる。だけど、ちゃんとやっているのに、そのちゃんとが先生の求めるちゃんとではないちゃんとをやった子供は、又「ちゃんと話しなさい」と言われる。
さらに、ここにはもう一つ問題が潜んでいる。そもそも話すってどうすることなの? 書くっていうけどどうやって書いたらいいの?という問題だ。小学校に入った時、大概話す聞くはできている。だから、(まあ、できるしいいか)ということでそのスキルを磨くことは、大事なのに、あまりされない。
で、書くことに力が注がれるのだが、書くは「漢字」の読み書きに時間を使っていて、文章の読み書きは使わず、特に、文章を書くにはかけられていない。「しっかりした文章を書きなさい」というけど、書くという営みは実はかなり総合的な営みなんだということを指導する方もわかっている必要がある。
つまり、しっかりと文章を書くためには、多くのことができることが必要なのだ。文字、言葉の意味を知っているから始まって、準備の仕方や書き進め方、見直し方などもう実にさまざまあるのだ。書けない状態は結果として一つなのだけど、なぜ書けないかは書けない人ごとに違う可能性がある。
何が原因で書けないのか? ここを見ずに「書きなさい」と指示だけしてもダメなのだ。これは実は「考えなさい」「質問をどうぞ」「意見を言いなさい」などの指示にも通じる。先生は簡単にこの指示を出す。だけど、このやり方を教える先生は少ないと思われる。ビッグワードのままで指示している。
(考えるってどういうことなの? 比較するの?類推するの?反論するの?)(質問するってどうやるの?どういう順番で準備すれば質問ができるの?)(意見ってどうやって見つけるの?賛成は意見でいいの?)子供達はこれを言語化できずにいる。そして、先生に「ちゃんと、しっかり」と言われる。
「ちゃんと、しっかり」と副詞に逃げた指示は、やめたい。また、ビッグワードが意味する内容を教えることなく無自覚に使うことも、やめたい。「ちゃんと話しなさい。」「しっかり文章を書きなさい。」と先生は簡単に言う。そんなに簡単なことじゃないんだけどなあ。指導言の指示ってのは、結構難しいと思うのですよ。
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