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なぜ学の旅 食と文化の強度
(時事速報 「広州から見たベトナム」2011年4月21日、5月4日を再編集したものです)
食は文化強度?
世界各地に移民街はある。代表的なのは中華街だが、そのほかにもイタリア街やインド街、韓国街などが思い浮かぶ。いずれも、どこに行っても受け入れられやすい「食文化」を持っているのが共通点だ。飲食店は原価が安く、初期投資も比較的安価なうえ、在庫を持たず日銭商売ができるから手軽である。移民先の社会で身を寄せ合って生活空間を作り上げ、今なおそれなりの活気を維持しているのも、食文化が軸となり「文化の強度」を維持しているからではないか。食材に宗教的なタブーを持たない奔放さ、他民族にも受け入れられ易い味、そうした食文化の強度があるから、移民街としてのアイデンティティをこれまで維持してこられたのかもしれない。もちろん、移民先で大学教育を受け、その社会の中間層や上級層にまで這い上がる人もいれば、新参者や這い上がれない人たちがその店を継承していくこともある。一定の移民の規模があったこと、その後も断続的に波状のように移民の流入があったこと、などが移民街の活気を支えてきた。
北米各地の移民街を見るうちに、今もそれなりの活気を呈す移民街と、そうでない移民街があることが分かった。そして、移民たちが継承する「文化の強度」に差があるのではないかと思うようになった。その文化強度の中心を成すものが食文化ではないか?ということで中華料理とイタリア料理、最近では韓国料理が各地で受け入れられやすい味だったことが移民街の活気と無縁ではないと推論した。
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例えば、大陸横断鉄道の建設に従事した150年前の日本人移民が、アメリカで日本料理屋を出したとして、それを生業に出来たであろうか?もちろん、移民で渡った同胞を相手にするのではなく、アメリカに根を下した各国からの移民を相手にである。日本料理は外国人にどのように受け入れられたのかを考えると、現在のような日本食ブームもなく、薄味で質素な食文化は家庭の食事ではあっても売り物にできる料理ではなかったのではないか。刺身や寿司は生魚を切って並べるものであり、加熱も調味もせず素材が姿形をほとんど変えずにテーブルに出てくることもある。衛生上の問題もあり、コールドチェーンなどなかった昔は刺身や寿司などは料理として成立するものではなかった。焼き魚にしても魚に塩を降って直火で焼いただけであり、世界標準でみた場合の「料理」という定義からは外れてしまう。蕎麦も原料が入手できないであろうし、小麦を原料とするうどんは中国人街の麺と大差ない。また、肉体労働者として渡った移民たちが、パンチの効いていない薄味の、かつ伝統的には肉料理をほとんど持たない淡白な日本料理でスタミナを付けたとも思えない。
アジア系移民として大先輩にあたる中華系移民のもつ海外での存在感の大きさは、その規模と歴史的時間の長さにあると思ってきたが、それだけではないのだろう。食事が汎用性を持つか持たないかといった事情、換言すれば多種多様な人種に受け入れられる食文化であるかが移民先での文化継承の度合いを左右したに違いない。
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日系移民のアイデンティティ
日本人が移民となって海外で暮らす際、維持すべき日本的な文化は文字と言葉と食事と各種風習である。ただし、日本的な風習の多くは元々は中国から伝播したものである。旧暦に従う二四節気の考え方は中国を起源とするし、二四節気の様々な行事も中国の風習の流れを汲むものである。中国人は国籍への固執よりも文化風習への執着が強く、どこへ行っても自発的にそれを実践することで「中国人」であり続けている。中国人が中国人たる所以は、言葉、文字、食事、生活様式全般であり、総じて文明と呼ぶようなこうした「らしさ」を実践することにある。国籍といった国家の保護から離れ、建て前ではなく実践、見た目ではなく本質といった根拠をどの国にあっても失わない強さをもっている。
さて、日系移民は何を以て日本人としてきたのだろうか。私たちが思い描く日本的な風習は、盆踊り、餅つき、七夕、正月などであるが、自発的にそれを実践するというよりも、見て楽しみ、雰囲気を味わうといったやや消極的実践でしかない気がする。換言すれば、日本らしい行事は、イベントとして参加するものであり、精神的な結束を作り出すものというよりは、嗜好としてそれを維持しようとしているだけのように見える。日本人であることを強烈に意識する瞬間というのが、中国人のそれと比べて少ないということが、文化の継承度合いに差異をもたらしているのではないか。
中華系移民は、農歴に縛られることで平均して月に2回、自分の出自を確認しながら異国での生活を送っている。常夏の東南アジアにあっても、極寒のニューヨークにあっても、中原(黄河と長江の間の平原)で育まれた農歴に従いながら、中国人らしい風習の数々を実践している。この文化的強度たるや計り知れない大きさである。
日系移民は中国系移民ほどの強烈さで「日本らしさ」を保持できなかった。明治維新が日本人の西洋化を進め、古いしきたりや慣わし、精神的な結束をもたらす風習を隅に置いた。日本の近代化や独立維持についてはそうすることによって獲得できたとも言えよう。しかし、異国の移民街を短時間概観しただけの浅はかな感想に過ぎないのだが、鮮烈なまでに存在感を示す「中国人らしさ」と比べ、「日本人らしさ」がずいぶんと希薄であるということを少々考えさせられた旅だった。