なぜスポーツをする人としない人に分かれてしまうのか【結論】と感想と言い訳
※2014年執筆
(↑の続き。)
4.結論(今後の課題・まとめ)
小学校・中学校・高校における体育と部活動の経験が、その後のスポーツ活動に非常に大きな影響を与えている。
体育と部活動の成り立ちの違いは、目的に大きな違いをもたらしている。スポーツとの重要な接点である体育において、スポーツを手段として行うだけでなく、もっとスポーツ自体の価値を認めてスポーツを目的とした教育が行うべきである。
スポーツの振興にマイナスの影響を与えている体育のストレスを改善し、競争を正しく理解し、さらにあらたまってスポーツをしなくても自主的に気軽にスポーツをする場所があれば、より多くの人が自らスポーツを行い継続していくことが出来る。
ビジネスを中心に行われてきた「健康とスポーツ」や「スポーツ観戦」であるが、スポーツが絶対的に良いものであるという風潮や行き過ぎた競争が、スポーツの本質である競技性とプレイの概念を損なわせ、いずれスポーツを廃れさせてしまうのではないだろうか。
社会の流れに関わらず、個人個人で豊かさについて考え、スポーツとの関係を構築していくことが重要である。スポーツの文化的価値を重んじ、人類の文化として残していくならば、社会やビジネスの価値基準ではなくそれぞれの価値基準においてなされなければならない。
(参考・引用文献)
(終わり。)
感想と言い訳
2014年執筆の卒論をなぜ今更載せようと思い立ったか。
この卒論の研究方法はアンケートだ。想像をはるかに上回る回答数に率直に感動した覚えがある。どのように使わせてもらったか、いつか誰かに見てもらいたかったのもある。大学でサークルを掛け持ちしていて他学部の知り合いもたくさんいたが、普段バンドやフットサルを一緒にやるみんなが、どんなことに関心を持って研究をしていたのかできれば今からでも知りたい。
そして一番大きな理由は、長年のもやもやをぶつけた卒論だったので自分にとって大きな問いで、どのような形でもこれからも携わっていたい、もしくは考え続けていたいと当時書き上げたときに思ったことを思い出したからである。
私が卒業した学部は、スポーツ系でもなければ卒論すら卒業に必要ない学部だった。
高校生の時、強いて言えばで第一志望だった進路はスポーツ系の学部だったが落ちた。高校時代、絶賛アイデンティティクライシスだった私は、世界史などの暗記科目や理数系は壊滅的だった。たまたま受かったオープンキャンパスにもいっていない文系の環境系学部と、2教科で受験する特殊な試験日程はきっと大穴だったのだろう。運がよかった。2年から始まる研究室の中で、たまたまできて2年ほどの、スポーツトレーナーをやっていた人が教授の研究室があった。つくづく運がいい。卒論のテーマも自分の関心のある事柄でよく、学部に関係なく真剣に考えた。
もともと考えることは好きなので、卒論に取り組んでいる間はずっと卒論のことを考えていた。卒論のことで教授に相談に行っていたとき、「そんなに考えすぎると結婚できないよ!」と言われたくらい。いや誰が卒論書かせてんねん。書くのは自分のためだけど。(”人生、物事を深く考えすぎて悩んでいると楽しくないしいろいろタイミング逃したりするよ。”くらいの意味だと思われる。関係性ができた上での発言だし文脈的に全然女性差別とかじゃないので心配ご無用。)
今になって読み返してみると、急に話がとんでいたり、何を根拠に、、何を偉そうに、、みたいな部分もあったけど、やはりアンケートの結果は結構面白かったな。教育学部でもなく、スポーツ系学部でもなく、ただのスポーツ好きで満足にできない時期や種目があったからこそ良くも悪くもこんな問いと結論だったんだろうなと思う。
ともかく、反論や批判があっても、卒論がなくても卒業できる学部だったのでそれによって卒業が取り消されることもないと思って公開しました。(あるわけない)
それに実は…当時使っていたUSBから原本を探したものの、「卒論のコピー」というタイトルのファイルしか見つからずこれがほんとに提出した最終版かもあやしいところですが…。
以上、はじめにから結論、言い訳までお読みいただいた方
ありがとうございました!