なぜスポーツをする人としない人に分かれてしまうのか【要旨・はじめに】
※2014年執筆
1. 要旨:
大学生・社会人になって、なぜスポーツをする人としない人に分かれてしまうのか。
なぜ苦手だからと臆する人が居て、あたかもスポーツが得意でスポーツが好きな人のみのものであるかのように扱われてしまうのか。
どうすれば誰もがスポーツに親しみ、長きに渡ってその文化的価値を享受し続けることができるのか。
現在スポーツ・運動を行っている人と行っていない人の過去のスポーツ経験やスポーツ観戦の有無をアンケートによって調査し比較したところ、体育と部活動が大学生と社会人になってからのスポーツに大きく関係していた。
運動部におけるスポーツは、大学生と社会人のスポーツ活動を助長し、体育における貢献はみられなかった。
スポーツとの重要な接点である体育において、スポーツを手段として行うだけでなく、もっとスポーツ自体の価値を認めてスポーツを目的とした教育を行うべきである。
また、競争について正しく理解し、社会の流れに関わらず個人個人で豊かさについて考え、スポーツとの関係を構築していくことが重要である。
2.はじめに(研究の背景・動機):
スポーツは、世界共通の人類の文化である。
スポーツは、心身の健全な発達、健康及び体力の保持増進、精神的な充足感の獲得、自律心その他の精神の涵(かん)養等のために個人又は集団で行われる運動競技その他の身体活動であり、今日、国民が生涯にわたり心身ともに健康で文化的な生活を営む上で不可欠のものとなっている。スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは、全ての人々の権利であり、全ての国民がその自発性の下に、各々の関心、適性等に応じて、安全かつ公正な環境の下で日常的にスポーツに親しみ、スポーツを楽しみ、又はスポーツを支える活動に参画することのできる機会が確保されなければならない。(『スポーツ基本法(平成23年法律第78号)前文』文部科学省)
現在日本政府は、スポーツ基本法を中心的理念とし、子どもの体力向上、地域スポーツ振興、オリンピック出場選手の育成などスポーツ振興に取り組んでいる。
なかでも、誰もがスポーツに触れる重要な機会として、教育として行われる小学校・中学校・高校の体育がある。中学校・高校の部活も、多くの人がスポーツを経験する重要な機会となっている。
高校卒業後、大学ではスポーツが、部活(体育会)とサークル(同好会)などに分かれ、目的や強度が差別化され、多様度が増す。
さらに社会人になると、スポーツを職業としプロになる人や社会人チームでスポーツする人・地域でスポーツをする人・個人で趣味もしくは健康を目的としてジムに通う人、ジョギングやランニングなど運動をする人などスポーツ活動は様々である。
しかし、同時に高校・大学卒業後は、スポーツを行う重要な機会であった体育が無くなり、自らスポーツができる場所や機会を得なければならず、スポーツや運動を全くしない人も現れる。
しばしば著者自身で体育館を借りて、スポーツを楽しむための機会を設けたこともあったが、「本当はやりたいのだけれど、苦手だから・邪魔になるから見ているだけで良い」と臆する人も多くみられた。
「スポーツが、運動が得意あるいはスポーツ好きな人のだけのものである。」
ということが、いくつかのスポーツ活動(フットサルサークル、社会人女子サッカーチーム、地域総合スポーツクラブの親子フットサル)に参加している著者個人の実感としてある。
現代スポーツは精神的発達とそれに対応する生活構造の分化、目的や欲求のレベルに応じてその価値や意味を変えながらも、人類共通の重要な文化として理解され根付いている。一部の階層のみのものであった時代もあったがスポーツも現在は全ての人のものとしてその権利が認められている。
それなのに、なぜスポーツをする人としない人に分かれてしまう時期が来るのか。
なぜ苦手だからと臆する人が居て、あたかもスポーツが得意でスポーツが好きな人のみのものであるかのように扱われてしまうのか。
どうすれば誰もがスポーツに親しみ、長きに渡ってその文化的価値を享受し続けることができるのか。
大学生や社会人で、現在スポーツまたは運動を行っている人と、行っていない人の過去のスポーツ経験やスポーツ観戦に対する関心、スポーツ・運動に関する意識を分析し、スポーツの今後の発展に寄与したい。
(本論に続く。)