なぜスポーツをする人としない人に分かれてしまうのか【研究方法・結果・考察①】

※2014年執筆

3. 本論:
3−1.研究方法:

・ 対象:大学生(大学・学部問わず)、社会人
・ 内容:スポーツ・運動に関するアンケート調査
・ 回答必須項目(その他のアンケートの質問内容は、資料2参照):

●現在何か、スポーツまたは運動として行っていることはありますか。
●スポーツ観戦はしますか。
●中学/高校時代に運動部で活動をした経験はありますか。(半年以上)
●学校の「体育」は好きでしたか。

・ 回収方法:インターネットアンケート作成サイト(アンケートツクレールhttp://enq-maker.com/)を用いて作成し同サイト上で公開。さらにメール、Facebook、Twitterを通じて現在大学生・社会人の知人友人、またその知人友人に協力をお願いし、URLから回答を得た。

3−2.結果:

回答数:計320人

卒論_図1

図1

大学生—271人(内1年生:48人、2年生57人、3年生70人、四年生96人)
その他・社会人—49人


アンケートの結果を、以下に抜き出して示す。

・現在何か、スポーツまたは運動として行っていることはありますか。

卒論_図2

図2

現在スポーツまたは運動を「行っている」と答えた人は129人、「行っていない」と答えた人は191人で約59.7%、つまり半数以上が現在スポーツ・運動を「行っていない」という回答であった。


・「体育が好きだったか嫌いだったか」「運動部に入っていたかどうか」と「現在スポーツを行っているかどうか」
が、どのように関係しているか、アンケートの結果をグラフと表で示した。

卒論_図3

図3

卒論_図4

図4

卒論_図5

図5

・ なぜ、体育が「嫌い/どちらかと言えば嫌い」でしたか。

卒論_図6

図6


・(現在スポーツまたは運動を「行っていない」人に対して)今後、何かスポーツまたは運動をしたいと思いますか。

卒論_図7

図7


・現在スポーツまたは運動を「行わない」理由

卒論_図8

図8


・スポーツ観戦を「する」人が、「現在スポーツを行っているかどうか」の割合

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図9


3−3.考察:
3−3−1.体育と部活動

図3・4より、過去のスポーツ経験と高校卒業後のスポーツに関係があることが見て取れる。

図3より、運動部に「入っていた」人ほど現在スポーツを行っており、「入っていなかった」人ほど、現在スポーツを行っていないとわかる。

また図4から、体育が「好きだった」という人の群だけが、現在スポーツを「行っている」人の割合が、現在スポーツを「行っていない」人の割合を上回っている。
残りの「どちらかと言えば好き」「どちらかと言えば嫌い」「嫌い」においては、現在スポーツを行っていない人の方が多い。

また、図5の表で、体育が「好き/どちらかと言えば好き」のうち、
運動部の経験が「ある」人で現在もスポーツを行っている人が106人いるのに対して、運動部の経験が「ない」人で現在スポーツを行っている人は11人であるところに注目すると、部活動が、高校卒業後もスポーツに自ら取り組む姿勢に大きく貢献していると言える。同時に、体育が「好き」でも運動部の経験が「ない」人はスポーツ運動の習慣がついていないことが言える。体育は高校卒業後に自らスポーツ・運動を行い楽しむ態度を育てるのには、直接的にあまり役に立っていないようである。

反対に、体育が「嫌い/どちらかと言えば嫌い」な人のほとんどが現在スポーツを行っていないことが見受けられる。体育が「嫌い」であるということが、体育や部活動が無くなった高校卒業後のスポーツ生活に、大きくマイナスの影響を与えていることになる。どうしてこうした差が現れてしまうのか、体育と部活動の違いについてはっきり述べておきたい。

体育と言う言葉は、日本においてPhysical Educationとして、1876年(明治 9年)に近藤鎮三(1849年~1894年)によって文部省の教育雑誌の中に使用されたのが最初とされている。14)また、明治時代に入り、福沢諭吉(1835年~1901年)が“学問のすゝめ” 中で教育の基本は「知育・徳育・体育」の 3 育であるとした。福沢諭吉の 3育の考えはハーバート・スペンサー(1820年~1903年)の教育論(1861年)を基にしたものとされている。

しかし体育や部活動はもともと日本にあったものではない。18世紀~19世紀頃、ドイツを筆頭にした欧州の「国民体育(体操運動)」とイギリス・アメリカを中心とした「近代スポーツ」の誕生し世界に広がったという経緯がある。ドイツを筆頭にした「国民体育(体操運動)」の主な目的は、強い兵士を育成するための訓練と近代産業を支える工場の生産労働力の育成だった。そのため内容は型にはめたような徒手体操・器械体操・隊列行進などが主なものだった。

一方、イギリスやアメリカを中心とした「近代スポーツ(サッカー、ラグビー、陸上、バスケットボールなど)」は、19世紀中頃及び後半から、「自由で自主的な身体活動」として学校の課外でのクラブ活動から多くは始まっている。各学校間の対抗試合などの競技化の広まりとスポーツ組織の整備とともに世界に普及していった。日本も明治時代に学校の課外活動から普及してきている。この二つの事柄が明治時代に、学校の教科目として「体操科」が、学校の課外活動として「近代スポーツ」が導入された。そもそも体育と部活動は全くルーツと目的の違うものなのである。体育とスポーツの主なイメージの分類例を、大塚16)が示している。

卒論_図10

図10


3−3−2.体育はなぜ嫌われるか

戦後、アメリカの行った民主化から体育は目的を変え、その一つの領域として、スポーツが取り入れられた。前川峯雄7)は、

体育は「身体」運動または、「身体的なもの」による「教育」である。体育の任務は、それぞれの時期における発達の特性に応じて、外からの働きかけをすること

であるとしている。スポーツは“「身体」運動または、「身体的なもの」”の一つとして体育の中で扱われるようになった。そもそもスポーツ(sport)の語源は、古代ローマ人が使っていた言葉(ラテン語)desportareであるといわれている。1) despoetareのdesはaway、portareはcarryの意味で、「AからBに場所を移す」、これが「心の状態を嫌な・暗い・塞いだ状態からそうでない状態に移す」「気晴らしする、遊ぶ」に転じたと言われる。つまりスポーツはレクリエーションとしての価値が根幹をなしている。

遊ぶという意味で使われるプレイ(play)とは、ホイジンガ4)が「自発的であること」「現実の生活から、一つの特徴がそのすべてであるような一時的な活動領域へと移行すること」「一定の時間空間の制限内で行われること」であるとしている。プレイは、演劇などにも共通する概念で、虚構ともされている。

また、競技性は、この虚構を「技術向上と体得」として現実のものとすることができる。この仮構性と競技性を保っているのがルールであり、ルールがスポーツという虚構を、技を競う現実のものとしているのである。2)自発的にルールに同意し参加することで、その仮構性と競技性が保たれるのである。教育として行われるうえでその自発性が失われ技を磨く競技性に重きをおかれる。「気晴らしや遊び」ではなく、自発的でなくとも行わなければならない。体育において「教育」を目的としてスポーツが行われる際に、ゲーム性や競技性などスポーツの特性の一部だけが取り入れられており、自主性やプレイの概念など、スポーツそのものの価値や意義を損なわせていると考える。

本来の価値が享受されないため、体育が「好き」であってもそれが高校卒業後のスポーツ活動を自ら楽しみ継続する態度にプラスの影響を与えていないのではないだろうか。

反対に、「体育が嫌いである」ということが、高校卒業後のスポーツ活動を継続する態度に大きくマイナスの影響を与えているということについても考えたい。アンケートにおいて、体育が「嫌い」もしくは「どちらかと言えば嫌い」と答えた67人に対して「なぜ、嫌い/どちらかと言えば嫌いでしたか。」という質問(複数回答可)をしたところ、「不得意だと感じたから」と54人、「授業がつまらなかったから」と18人、「身体を動かすのが嫌いだから」と12人が回答した。(図6)約80.5%の人が「不得意だと感じたから」と回答している。

なぜ苦手、嫌い、不得意といった感情や考えが生まれるのか。
教育としての体育の特性にあるのではないかと考える。文部科学省による体育の小学校中学校の体育新学習指導要領における目標・内容は以下の通りである。

1、目標
心と体を一体としてとらえ,適切な運動の経験と健康・安全についての理解を通して,生涯にわたって運動に親しむ資質や能力の基礎を育てるとともに健康の保持増進と体力の向上を図り,楽しく明るい生活を営む態度を育てる。

2、内容
A 体つくり運動
B 器械運動
C 陸上運動
D水泳
E ゲーム(球技)
F 表現運動(ダンス)、武道
G 保健、体育理論

これらのそれぞれの項目でスポーツは、その教育の手段として用いられている。他の科目同様その進度や能力レベルを評価され成績がつく。

また、体育が苦手で嫌いであったという人にインタビューしたところ、体育が嫌いであった一番の理由は、実技をクラス全員の目の前で行わなければならなかった点であるという。教師一人に対してクラスの生徒はだいたい10~40人、個人の実技能力を評価していく上で、同時に行わせたり大勢の前で行わせたりすることになりがちである。出来ないことを人前で行わなければならないということは、後に詳しく述べるが、心理的に大きなストレスとなる。他の科目では教師は出来上がったテストの答案、作品を評価すれば良いので同時に評価する必要はない。生徒は自分の進度で進めやすい。また、音楽科目の実技の演奏や歌唱テストなどは同じように心理的ストレスが伴うが、体育は身体的苦痛が伴う。体力の向上を目的とする体育(特に長距離走や水泳)は身体的ストレスを負わなければならない。筋力強化同様、ストレスをかけなければ体力は強化されないからである。

つまり体育は、苦手な人にとって心理的ストレスとともに身体的ストレスが伴うストレスの多い科目なのである。ゆえに不得意である人にとっては強く「嫌い」という感情が生まれやすい。

また、人間が自然に授かった特性(人間性)として、「理性・感性・身体性」があり、人間はこうした資質・能力を生きるための手段として発揮する一方、これらの資質や能力を表現すること自体に喜びを見いだすと言われている。3)

表現形式はそれぞれ、理性は学問や科学、感性は芸術、身体性はスポーツである。またこれらはひとつひとつ独立して存在しているのではなく、お互い関わり合うことでそれぞれの特性を十分に発揮出来る。理性(学問・科学)は感性と身体性に、感性(芸術)は理性と身体性に、身体性(スポーツ)は感性と理性によって支えられている。(図11)そしてこれらの人間性を高めていき、十分に発揮することが人間として健康で豊かな文化的営みなのである。

卒論_図11

図11

しかし、後から知る学問や身体性を使い道具を使って感性を表現する音楽や芸術よりも、走ることなどにおいては、道具を介さず身体一つで行うため、身体能力がそのまま現れやすい。初めて道具を与えられ使い方を知り、練習して使えようになったり、知識を与えられ解き方を知ってできるようになったりと後天的に体得することに対して、スポーツはある程度の差が始めから現れる。早く走れる人はある程度始めから早く走ることが出来る。能力がより先天的で直接的であるため、不得意な人は劣っているという意識をもってしまいがちである。同時に、始めから出来る人は出来なかった時期がないことが、出来る人が優位で、できない人が劣っていると勘違いをする大きな原因である。そして先天的な色の強い実技も体育では成績として評価されるため、苦手、劣っている、できないから恥ずかしいという意識を持ってしまうのではないだろうか。

(考察②に続く。)

(参考・引用文献)


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