田山花袋『山水小記』#09|太田・久慈川・太子・矢祭山・袋田・八溝山
(田山花袋の『山水小記』を読んで行きます。)
いまこのへん
九
太田から磐城に入って行く路は二条あるが、同じなら久慈川の峡谷に添った路を入って行くに越したことはない。この峡谷は余り人に知られていないけれど、頗る山水の勝に富んでいて、雲煙が常に揺曳し坌涌(ふんよう)した。那珂川の峡谷などとはとても比較にならない程すぐれたシインが到る処にあった。
この峡谷はかなりに長い。太田から一二里で山に入って、それから十二三里が間、山に凭(よ)り渓に枕んだ山村があったり、此方から向うに越して行く溪橋(けいきょう)があったり、高い仰ぐような絶壁があったり、処々の幅射谷(ふくしゃこく)から流れ落ちる小さな渓流があったりして、山中の一都会である太子町(だいごまち)に達するのであるが、それから更に進んで、常陸と磐城の国境近く行くと、岩石の奇を以て聞えた矢祭山(やまつりやま)の勝が、丁度その長い渓山の絵巻の中心を成しているかのように、美しく見事に展開されているのであった。
少なくともこの久慈の峡谷は東北地方屈指の大きな峡谷であった。多摩川の上流ほど両岸が迫ってはいないけれど、又木曽谷を少し狭くした位ではあるけれども、山の嵐気に富んでいる形と雲煙の複難しているさまとは、耶馬溪の谷よりはもっとぐっとすぐれているのを私は見た。春は躑躅(つつじ)山吹が咲き、藤が吹き、河鹿(かじか)が好い声を立てて鳴いた。秋の紅葉は上野の吾妻川(あがつまがわ)の河原湯附近よりももっとすぐれていた。
矢祭山の奇岩は、陸前の白石川の渡瀬にある材木岩とその奇を競うに足りる。耶馬溪ほど規模は広くはないが、又その形も違っているが、ある処はとても其処では見ることの出来ないような処があった。しかし交通の不便なために、誰も此処まで好奇に入って行って見るものはなかった。徒に田夫野人(でんぷやじん)の等閑視(とうかんし)して行くのに任せた。
袋田の瀑(たき)は、その多い幅射谷の一つである袋田川の上流に懸っている大きな見事な瀑である。太田から七八里、街道は西金(さいがね)の北一里で渓を渡って太子へと行っているが、瀑へ行くには、川の東岸を北して袋田に行って、そしてそこから山へと入って行くのであった。
太子の町は翠嵐の多い町だ。それはかなり大きな一支流の久慈の谷に落ちる会点に位しているような処で、一面筏や河舟(かしゅう)の河港の様なカラアをも持っていた。山深く、冬は雪が多いので、町にはすべて雪国風の屋根の高い廂の長い家が並んで見られた。ここから西に折れた一路は、八溝連峰(やみぞれんぽう)の一凹所を越えて、下野の那須野の東部へと出て行っていた。
磐城の名山八溝山(やみぞさん)へは、大抵太子から登って行った。それは矢張谷の西岸の輻射谷の一つを下野宮(しものみや)へと入って、上野宮(かみのみや)へと行って、そこから登るようになっているが、登路はそう大して嶮しいという方ではない。山頂は眺望が非常にすぐれていた。
八溝山はなつかしい山だ。又この山ほどすぐれた位置にその山容を置いているものも澤山にはない。水戸から下孫(しもまご)に行く浜街道からも見えれば、那須野を行く東北幹線の汽車の窓からも仰がれた。否そればかりではなかった。関東平野を流るる利根川の河岸からも、筑波、加波(かば)、更にその左に遠く連った翠微(すいび)を越して、それとさやかにその山容を指さすことが出来た。
この山は一面また那須野の山の一つと言うことが出来た。那須岳、高原山、更に西南に日光火山群と相対して、屹然(きつぜん)として聳えている形は、旅客の思いを誘わずには置かなかった。昔の旅客は、荒涼とした東北の蝦夷地に入って行った昔の旅客は、皆この山の姿を仰ぎながらさびしい白河の古関へ入って行ったのであった。芭蕉も那須から来て、この山の西南の裾にある黒羽(くろばね)町に二三夜を過した。
(次回に続く)