『はて知らずの記』の旅 #16 山形県・酒田
(正岡子規の『はて知らずの記』をよすがに、東北地方を巡っています。)
暑さ涼しさ半分づつ
朝七時に会員制ホテル(by伊集院光)の快活CLUB鶴岡店を出た。
ここに泊まったのは三度目だろうか。
一度目は月山登山の時だった。
あれは苦い経験だった。自分の登山史における転機にもなった(もしあの時の旅記録が残っていたら、掘り出して書き起こしてみたい)。
その意味で、思い出深い宿である。あれからもう一〇年以上経つというのに、元スポーツ用品店だったのではないかと思われる建物が変わらず健在なのが意外でもあり、嬉しいことでもあった。
羽越本線の線路の上を橋で渡る。
ここから牛が寝そべった姿のような月山が見えるはずだが、この日はどんよりとした灰色の雲に覆われていた。
電車は酒田へと向かっている。
自分が俳句を作ろうとすると、こんな物しか出てこない。
緑の水田が続く。
その中から突き出る白いものは、ことごとくサギの首だ。
正岡子規は、右手に見えている低山の麓から歩いて来たのではないか。
もうすぐ最上川の鉄橋に架かるはずだ。
スマートフォンを取り出して窓越しに構えたが、橋のガードが堅く、いい画が撮れなかった。
二〇〇五年の脱線転覆事故が、こうさせたのだろうか。
酒田駅に着いた。
飴色に焼けた男子中学生の手足に見惚れながら、フォームに降りた。
酒田駅には二三度降りたことがあるはずだが、蘇る記憶はまったく無かった。
だが、駅舎は明らかに刷新されていた。
羽越線は本数が少ない。滞在可能時間は一時間五〇分ほどである。
酒田の中心部もまた駅から離れていた。
急ぎ足で探索を開始した。
本間家旧本邸を外から眺め、市役所の脇を下って川へ出た。
昔風の橋の向こうに、特徴的な建物が並んでいた。山居(さんきょ)倉庫と云った。
米を保管するため、風通しに工夫が凝らされているようだった。
再び市役所の脇を上って進むと、街の中心部らしき処に出た。
中町と云った。地面は学校のプールのようなタイル張りで、ちょっとした広場になっていた。
昔はここに百貨店があったのではないかと思われた。
まだ八時台ということもあろうが、閑散としていた。
その奥を目指している。
正岡子規が言及している「翠松館」や泊まった「三浦屋」は日和山の近くに存在したらしい。
竹久夢二美術館になっている舞娘茶屋・相馬樓の前を通った。昔の料亭だそうだ。
この辺りから様子が変わった。
色褪せたスナックの看板がたくさん目に入った。
ここは昔、絶対に歓楽街だったな、と思った(今も、かもしれない)。
心地のよい海風が吹いた。
その先は、何だかよくわからないが山を背にして神社がたくさん並んでいた。
この一帯を日和山と呼ぶのだろうか。
下調べによれば句碑があるはずなので、光丘神社に入ってみた。
見つからなかった。
隣の一段高い位置にある下日枝神社に行ってみた。
道なのか、ただの崖の上なのか不明な所に入り込んでしまった。引き返そうか、と思い始めた頃、奇跡のように子規の句碑に出会った。
山の裏手に出た。
「翠松館」はこの辺りにあったと思われるが、住宅ばかりが並んで当時の名残は見出せなかった。
ただ、子規も言及している松だけはニョキニョキとたくさん生えていた。
何となく路地に入ってみた。
海の濃い青が見えた。
風が抜けた。
この時、子規の次の句の意味がわかった。
体の松に面した側は暑く、海に面した側は涼しいのだ。
やはり「翠松館」はこの辺りにあったのだと確信した。
時計は九時二〇分に迫っていた。
九時四四分発の列車を捕まえる必要がある。
隣の日和山公園を急ぎ足で一周した。
河口の運河らしき部分が見えた。
紅燈翠酒、客を招くの家――遊廓があったであろう船場町辺りも散策したかったが、もうその時間は残されていなかった。
カセットテープを巻き戻すように、来た道を最高速の歩行で駅へと急いだ。
(次回に続く)
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