『はて知らずの記』の旅 #23 福島県・白河
(正岡子規の『はて知らずの記』をよすがに、東北地方を巡っています。)
二つの城
大きくカーブして車両が白河駅に入る。
プラットフォームに降りると、高台に端正な城が見えている。
一八九三年にここに来た正岡子規も城を見ている。
「ああ、あれを見たのだな」と思うかもしれないが、それは誤りだ、ということに気づかねばならない。
正岡子規が書いているとおり「東半里許りに結城氏の城址あり」なのである(半里は約二キロメートル)。
駅から見えているのは白河小峰城である。
他方、正岡子規が訪れたのは白川城跡である。グーグルマップでは「白川(搦目)城跡」と表示されている。確かに、駅から東に二キロ程の距離にある。
なぜこれほど近くに城が二つもあるのか。
白河市のウェブサイトには、そうある。
続いて疑問が生じる。
正岡子規が来た当時、駅近の小峰城はどうなっていたのか。駅から見えたなら、少しは言及があってよさそうなものである。
当時、城は無かったのだろう。
正岡子規が汽車を降りた地点が三ノ丸だった。
では、現在駅から見えている天守はいつできたのか。
小峰城のある城山公園は、ちょっと羨ましいくらい素敵な空間になっている。
銘・忠・感
白川城跡の傍にある感忠銘を目指している。
白河は鉤型の多い街である。
直交させればよい道を、あえてカク・カクと曲げている。
城下防衛上の知恵らしいが、自分はF1コースのシケインを連想する。
車を運転する人は、レーサー気分になるだろうか。
かなり歩く。
徒歩三十分を見込んでいたが、それ以上歩いてる。
「畦道辿り行く」とあるが、畦道ではなかった。当時この辺りはもう米作地帯の中だったのだろう。
畦道を三十分以上かけて行くなんて、正岡子規はよっぽど城跡と感忠銘が見たかったに違いない。
右手に小川が流れている。
向こう岸は鬱蒼とした緑で、まるでジャングルである。白川城跡はこの小山の中にあるらしいが、自分は行かない。
麓にある感忠銘は、写真で見たイメージより小さかった。
ずいぶん手前の位置で柵が進入を防いでいる。近くに寄れないから、遠目に眺めるだけだ。
壁面の下の方に、「感」「忠」「銘」の三文字が、右を先頭に刻まれていた。
その下に漢字らしきものが縦に並んでいるのが見えた。
案内板が説明している。
一三〇〇年代の出来事に感心した一八〇〇年代の人がこれを作った。
それを九〇年後に、四国出身の二〇代の若者が見に来た。
その一三〇年後に、自分が見に来た。
正岡子規はわざわざ碑文を写し取ったらしい。明治の忠君愛国とは、そういうものか。
何かありそな……
その夜、正岡子規は遊廓へ行ったらしい。
谷津田川せせらぎ通りを進む。
小振りながらも洒落た造りの新橋を渡った。
「割烹」「旅館」「スナック」などの文字が眼に入って来る。
川べりの立地。緩い上り坂。
ああ、ここは昔、確実に色街だったな、と思う。いまも現役かもしれないが。
翌朝、正岡子規は天満宮を散歩している。
白河市立中央公民館そばの天神神社がそれだ。
と詠んでいるが、街道が行き止まった先の本当に「何かありさうな」丘の上に神社はあった。(手前にはコンビニが営業していたりするのだが、面影は残っているものだなあ。)
『はて知らずの記』の旅を通して感じたことは「風」だったと総括したが、ここにも風が通った。しかし一〇月の夕暮れに感じる風はすでに冷たかった。
新白河駅に向かう。
真っ直ぐな割に交通量が皆無の不思議な道がある。
さては昔の鉄道路か? と勘が働いたが、果たしてその通りだった。白棚(はくほう)線という鉄道の廃線跡だった。
歩きながらシャインマスカットの実を食べた。
噂を聞いて一度食べてみたかったのだ。
しかし値が高い。
ところが今日、地元のスーパーで十粒くらいのパックが五三七円のところ、なぜか一六二円の捨て値で売られていた。それを持って来ていた。
ヘタの部分を摘まんで口に入れた。
ブリンブリンの弾力があった。お菓子のグミを連想させた。
感動した。これは人気が出るわけだ。まるで食べる宝石だ。
味というより触感だ。呑み込める皮が舌の上に残るところが嬉しい。
そういえば、正岡子規の好物は果物だった。
当時のブドウにこんな品種は無かった。
これは正岡子規に食べさせてあげたかったな、と思った。
(次回に続くかも)
本日の旅行代
秋の乗り放題パス 七八五〇円
シャインマスカット(パック) 一六二円
合計 八〇一二円
関連する記事