支援金制度のキーマン・熊木正人の言葉――「子ども・子育て支援金制度はこうして始まった。」
子ども・子育て支援金の制度創設に関する国会審議を見ていると、どう見てもキーマンと思われる人物がいる。
こども家庭庁長官官房総務課支援金制度等準備室長の熊木正人(くまき・まさと)だ。
政府の理論武装は、彼が〝要〟になっていると思われる。
これまで見落としていたのだが、2023年12月に「こども未来戦略」が策定された際、「こども未来戦略会議」と並行して、「支援金制度等の具体的設計に関する大臣懇話会」なるものが二回開催されていた。
その議事録を見ると、構成員からの質問にまとめて答えるという形で、かなり長めのコメントを熊木が発していて、これを読むと、あの国会答弁の裏にはこういう思考過程があったのか、と発見するところが多かった。
そこで、熊木のコメントを何点かに分けて紹介してみたい。
支援金の性格について
資料「支援金制度等の具体的設計について(素案)」に記載されていることは次である。
「新しい分かち合い・連帯の仕組み」と言っている。
続きを読もう。
支援金は税ではない。かといって、反対給付が無いから従来の社会保険でもない。
強いていえば、〝社会保険っぽいもの〟と捉えているようだ。
支援金はAでもBでもないC、つまり第三の存在だ、ということだ。
「次元の異なる少子化対策」というが、給付内容はショボくて看板倒れかもしれない。しかし支援金こそは、まぎれもなく、これまでとは「まったく次元の異なる」存在なのである。
なお、支援金は税でも社会保険でもない次元の異なる第三の存在だが、〝社会保険っぽいもの〟ではあるから、その徴収に医療保険のルートを活用してもよい、という論理につながっているようだ。
(追記:支援金は社会保険料ということになった。この点については後日深掘りした。)
「実質的な負担が生じない」について
「実質的な負担が生じない」については、色々な人の口から説明されているが、これが最もわかりやすい説明だ。
つまり現在の保険料100は、このままだと120に増える。
歳出改革をして支援金を導入しても、120に増える。
すなわち、どっちみち負担は120に増える。
だから、追加的な負担は生じていない、という論法だ。
しかし負担が生じるかどうかはどこを基準に計測するかの問題であり、歳出改革〝前〟を基準にすれば負担は生じないが(120で変わらない)、歳出改革〝後〟を基準にすれば負担が生じる(110ですんだところに10増える)、と言える。
なお、同じ120でも使い道は異なる。
何もしなければ医療・介護に回るはずの保険料10をひっぺがして少子化対策に振り替える、というのが「実質的な負担が生じない」の〝本質〟なのである。
(ちなみに、歳出改革の成果額なるものを客観的に測定することは可能なのか? 私は疑わしく思っている。多分に見積りの要素が含まれるのではないか。そうであれば、改革の成果を大きく見せれば見せるほど、支援金もたくさん集められることになる。)
社会保障負担率について
「実質的な負担が生じない」の指標として取り上げられる社会保障負担率は、「社会保険料/国民所得」である。
《歳出改革と賃上げによって実質的な社会保険負担軽減の効果を生じさせ、その範囲内で支援金制度を構築することで、国民に実質的な負担が生じないこととしています。》
大臣の加藤鮎子が読み上げマシンのように繰り返しているが、基本は、分子の社会保険料をコントロールする、ということなのである。
先ほどの例で言えば、保険料100が120を超えないようにする。支援金込みで。
そこに、もしも賃上げによる国民所得の増大が加われば、率の低下に寄与するね、ラッキーだね、ということなのだ。
社会保険料のコントロールが主で、賃上げはオマケのようなものである。
なお、以上のことは、社会保障負担率が現在値よりも上昇しないこと、を意味するのではないことに注意しよう。分子は100から120に増えるのだ。分母の国民所得次第で、率は、上りもすれば下がりもするのである。
率は上がるかもしれないが、それは支援金のせいではない、なぜなら同額の歳出改革をしているから、支援金による上昇分はチャラである、上がったのは支援金のせいではない、という理屈なのである。
ここで気づいたのだが、社会保障負担率への影響を「実質的な負担が生じない」の証左にする以上、支援金は社会保険料として整理しないと分子に含まれなくなる。だから、支援金は社会保険料だ、と説明することにしたのかもしれない。
なお、大変紛らわしいが、社会「保障」負担率は社会「保険」料だけを見ているので、公費負担や自己負担が増えても、この率には影響しないことに注意しよう。
しかし、そもそも社会保障負担率を気にしている国民は、どれほどいるのだろうか? 五公五民などと言われるように、租税の負担率と合わせた「国民負担率」を気にする人はいても、私は社会保障負担率に注目しています、という国民はほとんどいないのでは、と思われる。
「上乗せ」と言わないことについて
支援金は医療保険料の一部ではなく、独立した別の社会保険料だ。それが政府の説明だ。
だから「上乗せ」と言わずに、「あわせて」と並列的に言うことにしたのである。
以上が、紹介するに値すると思われた熊木発言である。
「少子化対策」という言葉について
懇話会では、こども未来戦略会議とは異なる構成員が発言している。
その中に、なるほどな、と思われるコメントがあったので、あわせて紹介しておこう。
次は、NPO法人高齢社会をよくする女性の会副理事長・袖井孝子の発言である。
「少子化対策と言われると、何でという感じになってしまうので」に私は共感する。
少子化対策というと、それ自体、是か非か、が論じられる対象になってしまう。
政府が何か策を講じて出生数を増やそうとすることが良いことなのか、どうなのか、と。
それよりも、子どもの数に関係無く、たんに出産・子育てをもっと支えましょう、でよかったのではないか。今の時代、これに反対する人は少ないように思う。
次は、亜細亜大学経済学部長・権丈英子の発言である。
以上のような指摘がされていたのに、「こども未来戦略」は「少子化対策」を前面に押し出してしまった。
何しろ「こども未来戦略」の副題が、「次元の異なる少子化対策の実現に向けて」なのである。
そして、内容の一文目が、「少子化は、我が国が直面する、最大の危機である。」なのだ。
これは、2023年の施政方針演説において岸田が、「次元の異なる少子化対策を実現したい」と発言した以上、もう後戻りできなかったのかもしれない。
「○○対策」と銘打ってしまうから、成果が求められることになる。
少子化対策が目指す成果は何か?
政府は、価値観の押し付けはしない、と前置きしつつも、出生率の反転、という。
一方で、出生率に目標値は設けない、とも言う。
苦しい答弁だ。
以下は、現在の私の考え、である。
今回のような提案は、「少子化対策」と名づけるべきではなかった。
語呂は悪いが、「出産・育児の一層の社会化」などと言えばよかった。
そして国民に対しては、〝損得〟ではなく〝価値〟に訴えるべきだった。
結果的に子どもは増えても増えなくてもいい。得しない人もいると思う。
でも、そっちのほうがよい社会でしょう? と。
そうならなかったのは、国民に対して〝価値〟で説得できる政治家がいなかった、ということだろう。
そして、それを〝税〟でやる、と提案すればよかった。
それを、「分かち合いと連帯の仕組み」と称すればよかった。
社会保険だけでなく、税だって「分かち合いと連帯の仕組み」ではないのか。
(しかし、現内閣が新税や消費税率引上げを提案するのは現実的には不可能だったろう。物価が上昇局面にあるし、内閣支持率がずっと低いままだから、政権が飛ぶ可能性がある。)
それを〝税〟と言わずにやろうとするから、社会保険に寄せる必要が生じて、負担に対応する「受益」を言わなければならなくなった。つまり「損得」で論じなくてはならなくなった。
少子化対策により出生数が増えることにより医療保険制度の安定性が高まることより誰もが受益する、と。
受益するまでが遠くないか。
〝益〟を受けないまま、この世を去る世代があるだろう。少子化対策により生まれた子どもが税や社会保険料を支払って社会保険に貢献するのは約20年後だろう。
そもそも今回の対策で出生数が増える保証はない。〝益〟が生じない可能性すらあるのだ。
現在の政府の説明は、支援金は社会保険料だが、これに対応する社会保険給付は無い、である。
ここに、税でも社会保険でもない支援金制度という〝異次元〟の存在が誕生することとなった。
しかし多くの国民は、こうした〝異次元〟の制度を国会が産み出しつつあることに気づいていないだろう。
以上のような理解を欠いたまま導入される支援金は、消費税のように、国民から憎まれ続ける存在になりそうな予感がする。あれは保険料の流用なんだよ、と。
だが支援金の性格はどうあれ、〝実質的〟には、
①医療保険料に準じて新たにカネを集めること
②その徴収に医療保険の仕組みを使うこと
③そのカネで対象五事業を行うこと
④以上のために医療・介護給付の何か(未定)を削ること
これを今決めるのがよいのかどうか、を吟味すればよいのである。
(追記) 2024年6月5日、法案は成立した。一見、無理筋にみえる新しい社会保険料の提案が、スッと通ってしまった。政治資金をめぐるゴタゴタの脇で存在感は薄かったが、私はこれが、選挙の無い「黄金の3年間」で岸田内閣が、そして、こども家庭庁がものにした最大の〝成果(疑問符つき)〟だったと後に回顧されるようになるのでは、と想像している。
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