『賭けない競輪のススメ』 制度とレースを理解して感じる「KEIRINは、賭けなくても面白い」
井川夕慈のKindle電子書籍『賭けない競輪のススメ ギャンブラーにならずにレースを楽しむ方法』より「はじめに」の一部を抜粋して公開します。
はじめに
私が初めて足を踏み入れた競輪場は、東京都の立川競輪場であった。
競輪とはどのようなものであるか?
これを一度確認しておこう、と思った。
それがいつだったかは忘れた。
2000年代の半ば、おそらく自分がまだ20代半ばの頃だったと思う。
それほどに記憶はあいまいだ。
けれど、はっきり覚えていることがある。
それは、
<ここには昭和がある>
と思ったことだ。
地面に散乱する車券の紙くず。
くしゃくしゃにして捨てられ、風に舞い上がる新聞。
ぷーんと漂ってくるモツ焼きの匂い。
昼間から酒を飲んでいる男たち。
《焼跡闇市》という言葉が浮かんだ。
『火垂るの墓』の作家・野坂昭如の世界――。
場内には高齢者が多かった。
そうでなければ、ウンと齢の離れた金髪の若者か。
客層に、その中間の世代は薄かった。
女性は皆無ではないが、見つけたとしても萎びた老婆だ。
人生の吹き溜まりのような場所。
一言でいえば、荒んでいる。
荒んでいるが、ここには自由と猥雑さがあると感じられた。
その退廃的な雰囲気に、自分はどこか和んだのだ。
レースが行われるバンクに近寄ってみると、そこには苛烈な世界が展開していた。
金網の中の見世物――。
私は、古代ローマのコロシアムを思った。
あるいは、総合格闘技のアルティメットか。
鉄の網で高く囲われた中を、色鮮やかなユニフォームを着けた大人たちが、ぐるぐる回っている。
選手には、二つの意味で逃げ場がない。
一つには、競馬や競艇などに比べて、客との距離が圧倒的に近いこと。
もう一つには、結果に関して言い訳ができないこと。
競馬なら負けても馬のせいにできる。
競艇ならエンジンのせいか。
しかし競輪の場合、すべては自分の脚のせいである。
それ以外にあり得ないではないか。
選手に対してヤジが飛ぶ。
すべてはお前のせいだ。
気の利いたヤジもあれば、下劣なヤジもある。
ここでは人間性が如実に表れると思った。
鞭打つようなヤジに対する選手の反応は概して乏しい。
けれど、この距離だ。
本人の耳に届いていないはずはない。
視線を落として黙々と周回する選手は、じっと何かに耐えているように見えた。
私は競輪に惹かれた。
(続きはKindleでお楽しみください。)