『一〇〇年前の北海道旅行・夏 天民と行く鉄道・温泉三昧』 湯の川・定山渓・登別……
Kindle電子書籍 あいかわ ゆうじ『一〇〇年前の北海道旅行・夏 天民と行く鉄道・温泉三昧』より一部を抜粋して公開します。
序文 船で津軽海峡を
北海道――
そこにゆかりのない日本人なら誰もが一度は憧れを抱く土地であろう。
本州に生まれ育った私にとっても、そうだった。
初めてその土を踏んだのは二〇代前半だったろうか。
札幌に旅行した。
そして石原裕次郎の唄っている時計台を見て、ご多分にもれずガッカリした(笑)。
それ以降も、オセロのゲームではないけれど何となく四隅を制覇してみたくて、北の稚内・東の根室・南の襟裳を意味も無く訪れたりもした(西の角は函館ということにして誤魔化しているが)。
私が小学生だった頃、青函連絡船が廃止された。
一九八八年のことだ。
そのニュースをテレビで視た記憶がある。
だからそれ以降、旅行者が津軽海峡を渡るには、飛行機を除けば青函トンネルに潜るしか方法が無くなったのだと理解していた。
ところが……
青函連絡船は確かに廃止されたが、青森と函館をつなぐフェリーは現在も運行されていることをひょんなことから知った。
二〇二〇年夏、私は津軽海峡を船で渡る体験をしたくて函館へと向かった。
スマートフォンには石川さゆりの『津軽海峡・冬景色』の楽曲データを仕込んで(船の上で聴いてみたかったのだ。でも竜飛岬は見えなかった)。
そして認識を新たにした。
北海道は、船で渡ってこそだ――と。
時間にして三時間半の船旅か。
青森の市街からは少々離れているが、青森県の先端と北海道の先端は目と鼻の先である。
烏賊(いか)の漁場を挟んで右手と左手の関係である。
九龍半島と香港島に例えると行き過ぎだが、青森と函館はセットで一つの文化圏・経済圏を成している。
私はその思いを、函館の東に構える恵山(えさん)の山頂からうっすらと霞んで見える下北半島の影により強めた。
それは、暗くて長いだけのトンネルを高速列車で走り抜けたり、広い土地を贅沢に使った新千歳空港にピョンと着地したりするのでは気がつかないことだった。
もともとはこれしか方法が無かったのだ。
昔の北海道旅行はどんなだったのだろうか?
国立国会図書館デジタルコレクションを漁っていると、松崎天民『旅行気分山水行脚』(三水社 一九二八年)を見つけた。
ちなみに一九二八年は昭和三年である。張作霖爆殺事件があった年――
その中に「北海道の夏に」と題された章がある。
私は天民の文章に浸って、一〇〇年前の北海道旅行に出かけることにした。
青森から函館、大沼公園、小樽、札幌、定山渓(じょうざんけい)、旭川、釧路、苫小牧、登別温泉、室蘭、森、そして再び函館……
本の出版は一九二八年である。
そして同書は「この二、三年間に旅した記録」とのことである。
だから天民が旅したのは一九二五年前後とみてよいだろう。
以下はその文章を、忙しい現代人がスイスイ読めるよう私なりに再構成したものである。
その上で調べてみると、実は天民が体験した旅の相当部分が、もはや再現不能になっていることが判明した。
この点につき、蛇足ながら本書の末尾に「後記」として書き添える体裁としたい。
ともあれ、まずは天民の旅を追体験してみよう。
***
一 湯の川温泉
貧乏な私でも、汽車は二等と決めている。
往きは寝台車の中に寝そべった。
常磐線を仙台に出た。
鳴子温泉への乗換駅・小牛田(こごた)からは初めての路(みち)だ。
東北路の空は暗鬱な色をしていた。
しかしそれも、暑い盛りを過ぎて、明るい色を見せていた。
一ノ関は夢のうちに過ぎた。
平泉や花巻はなまきは、現(うつつ)の間に通った。
浜街道から奥州路へ――
芭蕉が歩いた『奥の細道』を車窓の右・左に見た。
尻内(しりうち・現在の八戸)を過ぎると間もなく、浅虫の海が見えて来た。
三三度何分という暑さの車中にも、さすがに北海に近い風が吹き込んだ。
何となく涼しい気持ちになった。
青森駅の待合はゴタゴタしていた。
そこで氷を噛んだり、風呂に入ったりした。
海岸に向けて歩いた。
尼港(にこう)行の運送船やら午後四時発の連絡船が、黒い煙を吐いていた。
私たちが乗るのは田村丸と言う。
一五〇〇噸(とん)の汽船である。
《津軽海峡を渡るのだ……》
そう思うと、何とも言えない感慨にうたれた。
(続きはKindleでお楽しみください。)
目次
序文 船で津軽海峡を
一 湯の川温泉
二 大沼と小沼
三 小樽の一夜
四 札幌ビール
五 定山渓温泉
六 暑熱の旭川
七 狩勝の国境
八 涼しい釧路
九 登別温泉へ
一〇 千人風呂泊
一一 石川啄木君
後記 鉄道破れて山河あり