『蘆花の愛した伊香保温泉 『新春』より「春の山から」』 湯好し、宿好し、眺望好し。
Kindle電子書籍 あいかわ ゆうじ『蘆花の愛した伊香保温泉 『新春』より「春の山から」 』より一部を抜粋して公開します。
序
暑い中、伊香保温泉へ行って来た。
前から一度、訪れたいと思っていたのだ。
きっかけは三つくらいある。
林芙美子の『浮雲』(1951年)で、男女の主人公が心中願望を抱いて宿泊していたのが伊香保だった。
元アイドルの相田翔子が語っていたが、Wink時代に嫌気が差して、相棒の鈴木早智子とテレビ局から逃亡した先が伊香保だった。
『ヤマノススメ』というアニメで、主人公のあおいが、高崎に住むほのかちゃんに誘われて二人で遊びに出かけたのが伊香保だった(サードシーズン第8話及び第9話)。
個人的な趣味として、旅先の文学館には出来るだけ立ち寄るようにしている。
自分は日本文学に詳しいわけではないし、特別な興味を持っているわけでもない。
作家や作品を知るきっかけにするためだ。
伊香保には徳冨蘆花記念文学館があった。
『不如帰』という代表作のタイトルは知っているが、読んだことはない。
徳冨蘆花(1868~1927年)は何かと神出鬼没な人である。
東京に住む人であれば、京王線に芦花公園という駅があるのをご存知だろう。
あれは駅の南方にある蘆花恒春園のことを指している(自分は行ったことがない!)。
また、つい最近読んだ石原慎太郎の『「私」という男の生涯』(2022年)にも、逗子にある蘆花記念公園のことが出て来る。
国内だけではない。トルストイに会うため、ロシアに行っている。
その後ふたたび、世界一周旅行に出かけている。
それでいて出身は、熊本県の水俣なのである。
そして群馬県の伊香保だ。
なぜここに記念文学館が?
展示を見ていくと、この〝どこにでも行く〟作家は伊香保の地をたいそう気に入ったようで、元気なうちに九度も訪れている。
ついにはここを、臨終の地に選んだ。
死の間際、無理を押して東京から伊香保までやって来た。
介助されながら椅子ごと湯に入り、満面の笑みを浮かべた。
十度目の訪問に復路は無かった。
作家の終焉の間が保存されている(旅館の別荘だった二間)。
その長押(なげし)の位置に、まさにこの部屋で撮った集合写真が掲げられていた。
死までもうあと幾日という作家の二つの眼は、異様なぎらつきを見せている。
その一方で、左端に写る若い看護婦は、なぜかにっこり笑っている。
自身と関わりのあったたくさんの人に囲まれながら死んでゆく。
何かの時の到来を待つお祭りやイベントであるかのように。
人の死とは忌避すべき対象ではなく、本来こうあるべきではないのか。
皆で集まってさまざまな思いを抱きながら、一緒に迎えるべきものではないのか。
その何とも奇妙な白黒写真は、自分に強い印象を残した。
文学館を出た後、湯につかった。
伊香保温泉は面白い位置にある。
上越線で沼田の方からやって来ると、まるで山の中腹にある遊園地にでも遊びに行くかのようだ。あ、あそこまで行くのだな、ということが遠方からも視認できる。
湯上りに休憩所のソファに腰を沈めて冷たいカフェオレを飲んでいると、北側の山々と対面する形になった。
これと同じ風景が蘆花の網膜にも映っただろうな、と思った。
作家はどのように伊香保での滞在を楽しんだのだろうか。
もう少し詳しく知りたくなった。
(続きはKindleでお楽しみください。)
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