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引退に寄せて…プロレスラー武藤敬司は10・9の髙田延彦戦でドラゴンスクリューを何度きめたか?#1

 プロレスラーの武藤敬司が引退する。
 しかし、残念だ……という思いは不思議と湧いてこない。
 むしろ、よくぞここまで続けたものだ(60歳!)、と拍手を送りたい気持ちの方が勝っている。
 就職して以来プロレス観戦から遠ざかっていたが、1990年代前半の私が10代前半だった頃は、新日本プロレスのテレビ番組「ワールドプロレスリング」を毎週欠かさずビデオテープに録画して観ていた。
 闘魂三銃士の中でも武藤敬司をだんぜん贔屓にしていた者として、また立ち居振る舞いを含めたそのスタイルから少なからず影響を受けた者として、アイコン的存在の引退を機に、何か書き残しておきたくなった。

 今では「プロレスLOVE」とか「シャイニング・ウィザード」などと言っているが、武藤敬司の黄金期は、やはり毛髪フサフサ(頭頂部に限っては早々にあやしくなったが)、赤もしくはオレンジ色のパンツ、入場曲はHOLD OUT、必殺技がムーンサルトプレスだった頃だろう(そしてマイクは下手だった(笑))。

 ム・ト・オ! ム・ト・オ!  ム・ト・オ!  ム・ト・オ!

 中でも頂点はと言えば、1995年10月9日「新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」と銘打たれ東京ドームで行われた髙田延彦戦だったに違いない。
 武藤敬司、32歳。
 髙田延彦、33歳。
 今ビデオを見直しても、双方、惚れ惚れするような肉体をしている。

 この試合を一言で総括するなら、ふさわしい表現は「驚き」であろう。
 何に驚いたか。

 一つは、武藤が髙田に勝って、新日本がUWFに完全勝利した「驚き」である。
 その日は対抗戦として全8試合が組まれていた。
 そして新日本の4勝3敗で、メインの武藤・髙田戦を迎えたのである。
 互いに団体の威信をかけた対抗戦である。
 4勝4敗のイーブンで終わって、〝To be continued〟となるのが興行的にはオイシイところだろう。
 だから新日本の4勝3敗となったとき、ああ、髙田が勝ってメデタシメデタシだな、と思ったのである。
 ところが……
 予想に反し武藤が勝って、5勝3敗の新日本の完全勝利で幕を閉じたのである。

 驚きの二つ目は、ギブアップで決着がついたことである。
 両団体の活きのよいトップがぶつかる決戦である。
 接戦になるだろう。
 仮に武藤が勝つとして、ムーンサルトプレスやフランケンシュタイナーを派手にきめている画は想像しづらい。
 それではいかにも嘘くさい。
 武藤が勝つなら、瞬間的な小技でアクシデント的にフォール(3カウント)を奪う形になるだろう。
 そして内容では髙田が勝っていたという印象を残して、UWFに花を持たせるのだろう。
 そしてもしも、もしもギブアップによって決着がつくとすれば、それは髙田が腕ひしぎなどの関節技で武藤をきめるのだろう。
 そう予想していた。
 ところが……
 ギブアップを言ったのは何と髙田の方だったのである。

「驚き」はまだ続く。
 三つ目は、そのギブアップを奪ったのが、「足四の字固め」という頭に「超」を付けねばならぬほど超古典的な技だったことである。
 これはもう、まったく想像の域を超えた出来事で、ただただ唖然とした。

 この試合は、以上の三重の「驚き」をもってプロレスの歴史に深く刻まれた。
 ちなみに、この対戦はIWGPヘビー級選手権試合だった。
 そのことを、どれくらいのファンが認識しているだろうか。
 ベルトのかかった試合であったことが吹っ飛んでしまうほど、三重の「驚き」がすべてを吞み込んでしまったのである。

 また現時点から振り返れば、この試合は、今日まで長く続いた武藤のプロレス人生の転機にもなったと思われる。
 それまでの武藤は、どちらかと言えば、泉のように溢れる才能に身をまかせて好き勝手に行動する一匹狼的な選手だった印象がある。
「団体抗争」の四文字がこれほど似合わない選手もいないだろう。
 ところが10・9では、否応なく、「新日本プロレスの大将」として登場することとなった。団体を背負って戦うはめになった。
 そして所属団体を勝利に導いたのである(後にプロレス団体の社長になる種はこのとき蒔かれたのだろうか)。

 そこで、ジーニアスが引退する日を迎える前に、プロレス史にとっても武藤のレスラー人生にとっても大きな曲がり角となったはずのあの試合を振り返っておきたくなった。

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井川夕慈
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